第31話 皇子の迷い

文字数 1,579文字

 ふう、と磐余彦はため息をついた。
 ため息の理由は簡単である。
――なぜ行くのか?
 磐余彦は悩んでいた。
 ここから先は強大なヤマトの勢力圏である。
 戦えば必ず多くの死者が出る。それを承知であえて戦いを挑む理由は何か。
 
 日向(ひむか)を出発した当初の目的は、ヤマトという国を見てやろうというものだった。
 半ば物見遊山気分だったことも否定しない。
 しかし旅を続けるうちに、余所者である自分たちが押し掛ければ、いくら口で「戦うつもりはない」と説明しても、無事で済むようなことではないことを悟った。
 ヤマトとその周辺国の緊張感は、一触即発の状態にあったからだ。
 (こと)に吉備王鷲羽(わしゅう)は、ヤマトによる侵攻を夜も眠れぬほど怖れていた。 
 そこへ磐余彦とその一行がやってきたのだから、まさに渡りに船である。
 この田舎者どもにたっぷり武器や兵士を与えてヤマトと戦わせればよい。
 自分は手を汚すことなくクニの安全保障が図れる。鷲羽がそう考えたのも当然の成り行きである。

 磐余彦は自分たちがどれほど甘かったかを思い知らされた。
 このまま吉備に留まり、骨を埋めるという選択肢がないわけではない。
 ただしその場合は吉備王である鷲羽に臣従し、その番犬として生きる運命になる。
——それでよいのか…。
 迷いが生じた原因はまさにそこにあった。
 ただし彼らには、九州に戻るという選択肢はない。
 日向では次の王はすでに決まっている。同盟の盟主である筑紫王の娘が産んだ鵜戸命(うどのみこと)である。
 磐余彦たちが帰ったところで、冷遇されるのは目に見えている。
 下手をすれば、謀反(むほん)の口実をでっち上げられて殺されるかもしれない。
 ならば乾坤一擲(けんこんいってき)、ヤマトを倒し、自分たちの王権を打ち立てるだけだ。
 
 その後吉備との同盟関係がどうなるかは、誰にも分からない。
 だがせめて大和の地を踏まなければ、今まで付き従ってくれた日臣や来目、隼手、椎根津彦たちにも申し訳が立たない。
 磐余彦が覚悟を決め顔を上げると、いつの間にか来目や日臣、隼手が傍に来ていた。
 目が合った来目はにっこり笑って言った。
「おいらは磐余彦さまについていきます。一緒にいられるなら何だってやります」
 晴れ晴れとした顔で宣言した。
「磐余彦さまはおいらを馬鹿にしなかった。同じ人間として扱ってくれた。なあ兄い」
 来目が呼びかけると、日臣は無言でうなずいた。

 来目や隼手が(しいた)げられてきた縄文の民であるのと同様、日臣もまた奴隷の子で、日向に戻っても終生低い地位に甘んじなければならない。
 来目も日臣も、磐余彦のいない土地にはもはや未練がないのである。
 その一方で、稲飯命や三毛入野命は違う思いに駆られているようだった。
「これがあれば米がたくさん作れる」
 稲飯命が手にしているのは、剣根(つるぎね)が鍛えた鉄の(くわ)である。
 黒光りして鋭い歯先を持つこの鍬なら、硬い土を掘り返して切り株や太い根を取り除くのも容易(たやす)くできる筈だ。
 農機具が木や石器製から鉄器に代われば、日向の農業生産は何倍にも向上するだろう。
 そうなれば飢えて死ぬ者も大きく減るに違いない。
「帰りたいのでしょう、日向に」
 稲飯命が振り返ると、磐余彦が立っていた。
「い、いや…」
 稲飯命が慌てて首を振った。だが、動揺しているのは明らかだった。
「吾が五瀬兄に言いましょう。稲飯兄と三毛兄が日向に帰れるように」
「よせ!」
 稲飯命は珍しく強く言った。
「吾らに帰る場所はない。ヤマトに行き、ヤマトで米を作るのだ!」
「兄者」
 今まで黙っていた三毛入野命が口を挟んだ。
「吾ら兄弟はどこまでも一緒に行動を共にする。それが吾らの運命なのですよ」
「三毛兄…」磐余彦は言葉に詰まった。
 三毛入野命の目は、これから起こる悲劇をすでに予知しているかのように、虚空を見据えていた。
                                  (第六章終わり)

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