第36話 雄叫(おたけ)びの海

文字数 1,805文字

 撤退を余儀なくされた日向軍は草香津まで引き返し、負傷兵を船に収容して出航した。
「うおーっ!」
 磐余彦が盾を立てて雄叫びを上げた。
「うおーっ!」
 日臣や来目もそれに(なら)って雄叫びを上げた。
 磐余彦が叫んだのは、思わぬ敗北に打ちひしがれる味方を鼓舞するためである。
「そうだ、まだ勝負はついていない」
「今度は勝つぞ!」
 傷ついた兵たちも勇気づけられて次々に叫んだ。
 のちにこの地は、盾津(たてつ)と呼ばれるようになった。

 上陸する時は四隻だったが、出航できたのは二隻のみだった。
 ただし半数以上の兵を失ったので、二隻でも十分だった。
「どちらへ?」
「南に向かおう」
 五瀬命に代わって全軍の指揮を執ることになった磐余彦は船頭に命じた。
 
 二隻の船は和泉(大阪)から南に進路を取った。
「ヤマトを攻めるなら伊勢まで行くのがもっともよいでしょう」
 椎根津彦が進言するように、後々のことを考えれば、紀伊半島をぐるりと回って東側の伊勢に上陸するのが理想である。
 そこから伊勢街道を西へ進撃するなら、ヤマト攻略も果たしやすい。
 しかし不安もある。
 全員が船で海路を行くのは、万一のことを考えれば危険が大きい。
 ことに太平洋に突き出た紀伊半島は、海の難所として知られる。
 運が悪ければ黒潮に流され太平洋を漂うことにもなりかねない。

 また吉備から同行している鍛冶師の剣根(つるぎね)は、年を取り長い航海には耐えられそうもない。
「弟子が宇陀(うだ)で鍛冶を営んでおります。吾はそこに行って武器をこしらえてお待ちしましょう」
 と申し出たこともあり、剣根は隼手に守られて陸路を行くことになった。
 宇陀は大和盆地の東方四里(約十六キロ)に位置し、険阻(けんそ)な山に阻まれてヤマトの勢力は及ばない。
 隼手と剣根は紀ノ川河口で下船し、紀ノ川の支流・吉野川を(さかのぼ)って宇陀を目指した。

 一方、磐余彦を頭とする二隻の海路軍は、南に向かって進路を取った。
 このころから、五瀬命が目に見えて衰弱していった。
「すまねえ、吾のせいでこんなところまで来ちまった」
 これだけ言うのも苦しそうだった。
「とんでもない。兄者のお蔭で面白い旅をさせて貰っています」
「たしかに、あのまま日向にいたら退屈で死んでいただろう」
 五瀬命は満開の桜の下で酒を呑むのが好きだった。
「ヤマトの桜も美しいと聞きます。それまであと少しです」
 五瀬命が笑いかけ、しかしすぐに顔を(しか)めてうめいた。船が揺れるだけでも苦悶の表情を浮かべる。

 船は雄水門(おのみなと)(現在の大阪市泉南市)の船着き場に着いた。
 ところがそこで五瀬命の容体が急変した。
 五瀬命は苦しい(あえ)ぎ声を上げながら言った。
「吾は大変な間違いを犯したようだ。やはり(いまし)の言うとおり、日に向かって敵を討つのは天道に逆らう行いだった」
「確かに少し事を急ぎすぎたかもしれません。しかし勝敗は時の運。兄者が元気になったら再度戦いを挑みましょう。今度は負けませんから」
「汝はいい奴だな」
 五瀬命は微かに微笑んだ。

「その優しさが汝の弱点だ。しかし強みでもある」
 磐余彦の腕を掴む手が次第に力を失っていった。
 それでも磐余彦は励ましつづけた。
「一度日向に帰りましょう。そして傷を治してください」
「だめだ。吾の骨は……この地に埋めてくれ」
 もはや命が尽きる寸前であることは誰の目にも明らかだった。
「承知しました」
 磐余彦がうなずいた。

 五瀬命が激しく咳こんだ。
 (たん)には大量の血が混じっていた。
「あの卑しい男に負わされた傷で死ぬのは……無念だ!」
 五瀬命は力を振り絞って最後の雄叫(おたけ)びを上げた。
「兄者!」
「兄者お願いだ。目を覚ましてくれ!」
 稲飯命も三毛入野命も五瀬命にすがった。
 しかし五瀬命は二度と目を開かなかった。
 五瀬命が最後に雄叫びを上げた故事にちなみ、この地は雄水門(または男之水門)と呼ばれるようになった。

 五瀬命の亡骸(なきがら)竈山(かまやま)(和歌山市和田)に葬られた。
 和歌山市には五瀬命を(まつ)る竈山神社があり、本殿の背後には五瀬命の墓と伝わる竈山墓がある。
 江戸時代の国学者、本居宣長(もとおりのりなが)がこの社に参詣した際に、
 《をたけびの かみよのみこゑ おもほえて あらしはげしき かまやまのまつ》
 と()んだと伝えられる。

 五瀬命を失ったことは痛恨の極みである。
 しかしその死を無駄にしないためにも、磐余彦は前に進まなければならなかった。
                                   (第七章終わり)

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