第37話 名草戸畔(なくさとべ)の抵抗

文字数 2,467文字

「あの(いや)しい男に負わされた傷で死ぬのは……無念だ!」
 五瀬命の最期の叫びが、磐余彦の耳に繰り返し響いた。
「やはりあの時、引くべきではなかった!」
 磐余彦は激しく悔いた。
 〈あの時〉とは、吉備において、総大将の地位を五瀬命に譲るという話が出た時である。
 五瀬命は大将の器ではない、そのことは日向の者は皆分かっていた。
 ならば磐余彦は、頑として()ねつけるべきだったのだ。
——吾が譲ったばかりに、むざむざと兄を死なせてしまった!
 
 悔いることはまだある。
 生駒山からまっすぐ東に向かい、ヤマトに攻め入るのは日輪に向かって戦いを挑むことを意味する。
 日輪は天への道に通じる絶対無二の存在であり、決して侵してはならなかった。 
 戦いに際し、禁忌を犯すのは自ら身を滅ぼす原因となる。
——その誤りに気づいていながら、なぜ身を()して止めなかったのか?
 理由は分かっている。
 
 誘惑に負けたのである。
 山一つ越えれば、ヤマトはすぐ目の前だった。
 そのほうが楽だし、手っ取り早い。
 皆長旅で疲れている。だから一刻も早く終わらせたい、と願うのは当然の成り行きともいえる。
 しかし、その一見〝楽な″道を選んだばかりに、今まで自分を信じ、苦楽を共にしてくれた多くの兵を失ってしまったのだ——。

 だが嘆いている暇は磐余彦にはなかった。
 総大将の五瀬命を失い、全軍が動揺している。これを落ち着かせ、元に戻すのは自分の役目である。
 磐余彦には新たな指揮官として、全軍を()べる責任が生じた。
 日臣をはじめ、部下たちにむろん異存はなかった。
 椎根津彦や来目にしても、五瀬命だけの誘いだったら、この遠征には付き従わなかったであろう。
 磐余彦がいたからこその従軍であることは、疑いようがない。
 兵の数は大きく減ってしまったが、陸路を進む隼手の部隊を合わせればまだ存分に戦える。
 宇陀(うだ)では隼手とともに剣根(つるぎね)が武器を揃えて待っていてくれるはずだ。
 日向軍は五瀬命を(うしな)った哀しみを乗り越え、勇を鼓舞して前に進むことにした。

 南へ進路をとった日向軍の船は、紀伊の名草邑(なくさむら)の浜に上陸した。
 現在の和歌山市と海南(かいなん)市との市境、名草山の麓である。
 兵士たちは陸に上がれると喜んだが、この地を治める豪族の首領、名草戸畔(とべ)はヤマトに通じていた。
 磐余彦たちは敵の只中に上陸してしまったのである。

 ちなみに「戸畔」とは女性首長のことである。
 祭祀を(つかさど)る女性が、(まつりごと)を行う〈首長〉も兼ねる例としては、邪馬台国の卑弥呼(ひみこ)の存在が良く知られている。
 しかしそれから少し時代が進むと、ヤマト王ニギハヤヒのように、男王が政祭両方の権力を併せ持つようになってきた。
 その一方で、ヤマトの支配が未だ及ばぬ地域では女性首長が残っていた。
 名草戸畔もその一人である。

 話は少し(さかのぼ)るが、磐余彦たちが上陸するより少し前に、名草戸畔のもとをヤマトの使者が訪れていた。
「もし日向の兵がこの辺りに現れたなら、必ず討ち果たして欲しい。褒美(ほうび)は思いのままに与えよう」
 そうとも知らず磐余彦たちは紀伊の森を抜け、名草山の麓に広がる集落を訪れた。

 村の中央に高殿(たかどの)が建っており、中から名草戸畔が現れた。
 白い衣を(まと)った初老の女である。
 磐余彦が礼儀に従ってこの地を通過したい旨を伝えると、女は(さかき)を振って叫んだ。
「神のお告げじゃ。この者どもを倒せ!」
 実は「神託(しんたく)」などではなく、ヤマトの差し金なのだが、数十人の名草兵が一斉に襲いかかった。

 だが、来目の(しら)せによってすでに伏兵の存在を察知していた磐余彦たちは、あっという間にこれを撃退した。
 日向兵の武器が吉備の鉄を鍛えた鉄剣や、青銅の(やじり)だったのに対し、名草の兵は未だ石斧(いしおの)石鏃(せきぞく)の矢しか携えておらず、太刀打ちできないのは明らかだった。
 名草兵の多くが傷を負ってうめき声を上げる中、名草戸畔はなおも抵抗を試みた。
 しかし剣を持つ手も覚束ないほどよろけている。

「殺さずに捉えよ!」
 磐余彦が命じると、日臣はすぐに名草戸畔を生け捕りにした。
 両手をがっしりと抑えられ、名草戸畔は苦悶の表情を浮かべた。
「放してやれ」磐余彦が日臣に命じると、名草戸畔はがっくりと膝をついた。
「おとなしく従えば命までは奪わぬ」
 そう言ながら磐余彦が近づこうとした時、名草戸畔はふいに立ち上がった。
 首に掛けた勾玉(まがたま)の首飾りを引きちぎり、思いがけない早さで突進してくる。
 手の中で何かがきらりと光った。

「死ね!」
 名草戸畔が叫びながら振り上げたのは、細長い針だった。
 磐余彦に突き刺す寸前、日臣がすれ違いざまに名草戸畔を斬った。
「ぐわっ!」
 名草戸畔は血しぶきを上げて倒れた。

 磐余彦は無事だったが、全身に返り血を浴び、(ほほ)にもねっとりと黒い血がこびりついた。
「不吉な」
 すぐに顔を洗い流したが、嫌な感じは(ぬぐ)えなかった。ぞくりと不吉な予感がした。
 名草戸畔が首飾りに仕込んだ針は長さ二寸(約六センチ)ほどで、先端にはトリカブトの毒が塗ってあった。
 刺されれば死は免れなかっただろう。
 
 名草邑を制圧した日向軍は、これからどのルートを辿(たど)るべきか話し合った。
「こんな所までヤマトの力が及んでいたとなれば、迂闊(うかつ)に進むのは危険です。やはりここは紀伊半島を回り、東の伊勢からヤマトに攻め込むべきでしょう」
 日臣が主張した。
「だが、それでは時間がかかりすぎます。いったん海に出ると見せかけて紀ノ川を(さかのぼ)ったほうがよいと考えます」
 椎根津彦は安全策を望んでいる。
「そうだよ。隼手や剣根もあんまり長く待たされると不安になっちまう。おいらは紀ノ川に戻るほうに賛成だな」
 珍しく来目も口を挟んだ。

 皆の意見を黙って聞いていた磐余彦が最後に口を開いた。
「吾は紀伊の海を回る道を選びたい。死の間際に兄が言ったように、『日に向かって敵を討つのは天道に逆らう行い』だ。だから遠回りであっても、伊勢まで海路を行って東からヤマトを攻めたいと思う」
「磐余彦さまがそう(おっしゃ)るなら従います」
 椎根津彦が即答し、皆も揃ってうなずいた。
 一行は紀伊半島を回るべく二隻の船に戻った。

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