第38話 ゴトビキ岩

文字数 1,884文字

 黒潮に洗われた断崖絶壁がつづく、本州最南端の潮岬(しおのみさき)
 枯木灘(かれきなだ)から熊野灘(くまのなだ)と呼び名を変えても、海岸近くまで山が迫る景色は変わらない。
 人々は海岸沿いの狭い土地に、へばりつくように暮らしている。
 そんな長閑(のどか)ともいえる風景を眺めながら、磐余彦たちを乗せた二隻の船は、巨岩奇岩が次々に現れる海岸沿いを進んでいった。

 このまま紀伊半島をぐるっと回って北上し、ヤマトの「東方」にあたる伊勢まで行って上陸する計画である。
 口で言うのは簡単だが、穏やかな内海とは異なり、荒波のうねる外洋航海には常に死と隣り合わせの危険が伴う。
 さらに北には、志摩(しま)半島と渥美(あつみ)半島に挟まれた伊良湖(いらこ)水道という難所も待ち構えている。
 気の休まる場所は、どこにもないと言ってよい。
 
 この時代の船はむろんエンジンなどない。
 航海はほぼ海流と風任せで、大半は人力で漕ぎ渡るか、帆柱に(むしろ)のような旗を掛けて風を受けるぐらいしか方法がない。
 いったん黒潮に呑み込まれてしまえば、自力で抜け出すのはまず不可能だ。
 黒潮は速さが最大四ノット(時速約七・四キロメートル)、秒速二メートルにも達する。
 幅は百キロメートルにも及び、メキシコ湾流や南極還流と並ぶ世界最大級の海流である。
 とりわけこの潮岬は、船舶技術の進んだ現代に於いても危険な航路のひとつに数えられている。

 幸い海は()いでいる。
 この海には世界で最も北に位置する珊瑚(さんご)の群落があり、透き通った水面には珊瑚の中で泳ぐ色鮮やかな魚の姿も見える。  
 さらに船から少し離れた場所を、何十頭も群れをなして泳ぐ生物がいた。
「大きな魚じゃな」来目が目を丸くして言った。
「ばか、勇魚(いさな)じゃ」
 珍しく隼手が鼻で笑った。
 勇魚とはクジラのことである。
 海洋民の隼人にとって、クジラはさほど珍しいものではない。
 黒潮の巨大な流れは、この海域にイワシやアジ、サンマ、サバなど多くの魚をもたらしてくれる。
 それを狙ってミンククジラやザトウクジラ、ハナゴンドウなど多くのクジラが集まるのである。

 一行を乗せた船は潮岬を無事に通過し、海岸沿いを北上して熊野地方きっての大河、熊野川の河口に辿り着いた。
 ここでいったん上陸し、神邑(かみむら)まで来ると、神倉山(かみくらやま)の頂きにある天磐盾(あまのいわたて)、通称ゴトビキ岩に登った。
 ゴトビキとはこの地方の言葉で蝦蟇蛙(がまがえる)のことである。
「うわあ、でっかいな!」
 真っ先に叫んだ来目が、それきり言葉を失った。
 いつも陽気でお喋りな男が、巨大な岩塊が見せる荘厳な(たたず)まいに圧倒されている。 
 あたりは清浄な空気に包まれている。
「なにか、霊的な力を感じる場所ですね」
 ふだんは冷静な椎根津彦も思わず声が上ずった。
「たしかに、不思議な力が宿っているようだ」
 磐余彦も何か——神の意思のようなもの——を感じ取ったようである。 
 
 日本では古くから自然崇拝の一緒として、巨大な石には神が宿ると信じられてきた。
 いわゆる〈磐座(いわくら)信仰〉である。
 熊野灘の(がけ)にそそり立つこの巨大な岩も、美しい風景と相俟(あいま)って、神の(おわ)す場所として(あが)められたとしても不思議はない。 
 磐余彦とその一行は、岩に向かって行軍の成功を祈った。

 ちなみにこのゴトビキ岩には、現在は(ふもと)から頂まで五百三十八段の石段が築かれている。
 これは十二世紀末に、鎌倉幕府初代将軍の源頼朝が寄進したものである。
 磐余彦がこの地を訪れたのはそれより約九百年も前で、無論石段はなかった。

 磐余彦がなぜこの地に立ち寄ったのかについては諸説ある。
 注目されるのはこの地に徐福(じょふく)伝説が残ることだ。
 徐福は中国・戦国時代の(せい)の人で、(しん)始皇帝(しこうてい)(紀元前二五九~同二一〇)の命により、蓬莱(ほうらい)にある不老長寿の仙薬を求めて船出したとされる。
 船には財宝とともに若い男女三千人が乗っていたという。
 徐福が目指した蓬莱とは、()(日本)であった可能性が高いとされる。
 事実、徐福伝説は鹿児島県出水(いずみ)市や佐賀県佐賀市、京都府伊根(いね)町など日本各地に残っている。

 なかでも熊野はもっともよく知られた伝承地で、熊野川の河口に位置する新宮(しんぐう)市には徐福の墓があると信じられている(、、、、、、、)
 「墓」のある徐福の宮の参道からは、秦代の貨幣・半両銭(はんりょうせん)も見つかっている。
 そのことからも、徐福伝説が単なる「伝承」とは言い(がた)い面を覗かせる。
 
 また熊野は本州の中でも黒潮の流れにもっとも近い地域で、この地に外国の舟が漂着することも珍しくない。
 徐福の船が熊野に辿(たど)り着いたという伝承は、決して荒唐無稽とは言いきれない側面があるのである。
 磐余彦はこの地が徐福(ゆか)りの地であることを知っていて、徐福の子孫に援助を請うたのかもしれない。
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