第40話 罠

文字数 2,052文字

 高殿(たかどの)の中央に、白い顔に朱を塗った女が座っていた。
 (かずら)(髪飾り)を結った頭に金の冠を被り、白と赤の鮮やかな衣と()を身に(まと)っている。
 まだ年若い女で、丹敷戸畔(にしきとべ)と名乗った。
 
 熊野灘での海難ののち、二木島(にぎしま)で身体を休めていた磐余彦とその一行のもとへ、丹敷戸畔の使者が訪れて言った。
「遠路はるばる来られた日向(ひむか)の王子を、おもてなししたい」
 丹敷戸畔は串本(くしもと)(和歌山県串本町)から丹敷(三重県大紀町(たいきちょう))にかけて統治する女首領である。
 使者の口上を聞いた磐余彦は、日臣と来目、椎根津彦を供に連れ、海岸沿いの森を抜けて丹敷戸畔の館までやって来た。
 
 磐余彦が案内された館は質素な造りだが、広さは縦二間と横三間(約十二畳)ある。
 その上座に丹敷戸畔は熊の毛皮を床に敷いて座っていた。
 熊は神の化身であり、権力の象徴でもある。
 磐余彦はなぜかその時、日向で倒した黒鬼のことを思い出した。

 丹敷戸畔と向かい合って磐余彦が座り、後ろに日臣と来目、椎根津彦が控えた。
「どうぞお召し上がりください」
 侍女が酒壺を手に、磐余彦の杯になみなみと酒を注いだ。
 鮮やかな朱色の酒である。
山葡萄(やまぶどう)から造った(ささ)です。甘い香りがしますよ」
 丹敷戸畔が微笑みながら勧めた。
「美しい。こんな酒は初めて頂戴する」

 しかし鮮やかすぎる。
 磐余彦は感嘆しつつも一瞬ためらった。
「ほほほ、毒など入っておりません。ほれこの通りです」
 丹敷戸畔は手に持った杯を一気に飲み干した。
 空になった杯を見せてふたたび笑む。
 こうなると磐余彦も飲まざるを得ない。杯に口をつけた。

 それより一瞬早く、一口含んだ椎根津彦が叫んだ。
「飲んではなりません!」
 しかし磐余彦はすでに口に入れた後だった。
 たちどころに目の前が暗くなり、天地が回り出した。
「おのれ(はか)ったな!」
 日臣が抜き身の剣を手に磐余彦に駆け寄った。

「ほほほ。走野老(ハシリドコロ)の根を(せん)じたものじゃ。動けまい」
 走野老は嘔吐や幻覚作用をもたらす強力な毒草で、名の由来のとおり口に入れると錯乱して走り回ることからその名が付いたといわれる。
 最悪の場合は死に至る。
名草戸畔(なくさとべ)はわが母。母の仇を討てて()も本望じゃ」
「なんと!」
 丹敷戸畔はやむなく討った名草戸畔の娘だったのである。
「磐余彦さま!」
 皆が一斉に駆け寄る。
 その隙に丹敷戸畔は身を(ひるがえ)して、館の外に逃げようとした。
「逃がすか!」
 来目が素早い動きで丹敷戸畔を組み伏せた。

 毒酒を呑んだ磐余彦は、早くも痙攣(けいれん)をはじめている。
 仁王立ちになった椎根津彦はすらりと剣を抜いた。
「毒を抜く法を教えれば命だけは助けてやる」
「無駄じゃ。もう助からぬ」
 丹敷戸畔はあざ笑った。
 それを見て椎根津彦の目がすっと細くなった。
「そうか。それなら手間が省ける」
 はっとする一同。
「いかん!」
 日臣が止めようとしたが、椎根津彦の剣のほうが早かった。
 丹敷戸畔は一刀のもとに斬り捨てられた。
「どうせ答えるつもりはないはずだ。時間が惜しい」

 剣を収めた椎根津彦はただちに磐余彦の介抱を始めた。
「これを飲ませるのだ」
 椎根津彦が取り出したのは黄色い丸薬である。
「三毛入野さまが下さったのだ。毒を吐き出させて胃の()を洗う」
「分かった」
 日臣が意識のない磐余彦の口を開き、竹筒の水とともに黄色い薬を流し込んだ。
 ごくりと飲ませる。

 一瞬の静寂ののち、磐余彦が激しく嘔吐(おうと)を始めた。
 吐瀉物(としゃぶつ)には赤い液体が混じっていた。
「おっ、毒が出たぞ!」
 来目が小躍りして歓声を上げる。しかし日臣は厳しい顔を崩さなかった。
「まだ十分ではない」
 皆が見守る中、磐余彦は繰り返し薬を与えられ、その度に嘔吐してすべてを出し切った。

「次は毒消しの薬だ。これも三毛入野さまのお手製だ」
 椎根津彦は今度は黒い丸薬を取り出し、磐余彦に呑ませた。
「胃の腑から毒を吸ってくれるそうだ」椎根津彦が言った。
 それを聞いた日臣は(ひざまづ)いて両手を合わせ、目を(つぶ)り必死に祈った。
「三毛入野命さま、どうか磐余彦さまをお助けください」
 しばらくすると磐余彦は静かに眠り始めた。
 三毛入野命の薬が効いてきたのである。
「これでしばらく休んでおればよい」
 椎根津彦の言葉に一同がほっとする。

 しかしそれも束の間、背後でぼんと破裂音がしたと思うと、不意に部屋の中が明るくなった。
 振り返ると、丹敷戸畔の亡骸(なきがら)から赤い炎が立ちのぼっていた。
「大変だ、死体が燃えている!」
「磐余彦さまを避難させよ!」
 そう叫ぶ間にも煙がもうもうと立ち込め、あたりが見えなくなった。
 火の手が回れば皆助からない。
「違う。これは火ではない!」日臣が叫んだ。
 燃えていると思ったのは誤りで、亡骸から炎のような赤い煙が噴き出していたのだ。
 館の中はあっという間に赤い煙に包まれた。

「吸ってはならぬ!」
 椎根津彦が叫んだときはすでに遅かった。
 煙を吸い込んだ日臣や来目がばたばたと倒れた。
 丹敷戸畔が今際(いまわ)のきわに術を掛けたのである。
「しまった……」
 椎根津彦も苦悶のうちに崩れ落ち、やがて誰も動かなくなった。

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