第58話 立后

文字数 2,106文字

 磐余彦が新たな王となるのをきっかけに、呼び名も王から「大王(おおきみ)」と改められた。
 これに伴い、大和平野では都造りが日に夜を継いで進められた。
 王宮が建てられたのは橿原(かしはら)の地である。
 現在の奈良県橿原市の橿原神宮あたりと考えられている。
 ちなみに橿原神宮は明治二十三年の創建である。

 活気にあふれる宮殿の建築現場の光景を眺め、磐余彦が作業に当たる大工たちと親しく語らっていると、周りに若い娘たちが集まってきた。
 それも一人二人ではない、十人以上いる。
 娘たちは建築現場には似つかわしくなく、あでやかな衣を(まと)い、色鮮やかな冠や翡翠(ひすい)の首飾りで美しく飾っている。
 それぞれが従者を従え、身分の高い(ひめ)であることが分かる。
「なんでえ、ありゃ」
「知らねえのか、ありゃみんな、大王の(きさき)を狙って豪族たちが差し出したものよ」
「へえっ、うらやましい」
 大工たちもしばし作業の手を休め、媛たちの品定めをしている。
 
 豪族たちは建築現場をひっきりなしに訪れ、宮殿の柱となる木材や人夫などを気前よく献上した。
 一緒に来た媛たちは、磐余彦の前で(けん)を競うように愛嬌をふりまき、歓心を得ようと必死だ。
 しかし磐余彦はなんとなく浮かない顔をしている。
 これより少し前、思いがけない別離があった。
 ある日の朝、隼手が磐余彦の前に進み出て(ひざまず)いた。
「聞いてほしいこと、ある」
「何なりと」
「俺、阿多(あた)帰りたい。妹、帰ってほしいと」

 隼手のルーツは鹿児島県西部地方を根拠とする阿多隼人(はやと)である。
 素手の格闘技、相撲(すまい)の達人である隼手は、阿多隼人の族長となるべき血筋だったが、妹にその地位を譲り、磐余彦に従って東征の旅に参加した。
 その妹から、阿多の政情が不安なので帰ってほしいとの(しら)せが、九州から西日本に亘って交易する商人によってもたらされたのだ。
「ヤマト、見た、満足。いま、妹、助けたい」
「いつ帰るのだ?」
「……明日」
「そんな急にか。寂しくなるな」
 
 ようやく王位に就くことになったとはいえ、ヤマトの豪族がすべて磐余彦に臣従するとは限らない。
 ひとたび叛心(はんしん)が起これば、磐余彦の命は風前の(ともしび)だろう。
 心を許せる戦友(とも)は一人でも多いほうがいいに決まっている。
 それでも磐余彦は隼手を快く送り出すことにした。
「また来る……来たい」
「きっとだぞ。おいらがそれまで磐余彦さまをお守りするから、必ず戻ってこいよ!」
 同じ縄文の民である熊襲(くまそ)の来目も涙を浮かべて隼手を見送った。

 勇猛で忠義心に(あつ)い隼人族は、その後の古代ヤマト王権に於いて、長らく王宮警護に当たった。
 『日本書紀』天武天皇紀には、「十一年(六八二)七月 隼人多く来たる。方物(ほうぶつ)(こう)す」とある。
 方物とはその地方の特産物や土産(みやげ)のことである。
 この時阿多隼人と大隅(おおすみ)隼人が朝廷で相撲をとり、大隅隼人が勝ったと記されている。

 隼手が去ったことで、ともに戦った仲間がまた一人、磐余彦の前から姿を消した。
 磐余彦にはこれが隼手との今生(こんじょう)の別れになる予感がしていた。

 それからしばらくが過ぎた。
「来目はどこへ行った」
 道臣や椎根津彦、弟猾、弟磯城ら新旧の家臣を交えて酒を酌み交わしているとき、ふと来目がいないことに気づいた。
 磐余彦が訊ねても、みな首を傾げて知らないと言う。
 来目まで自分のもとを去ってしまうのではないか、とふと不安が(よぎ)った。

 そこへ、来目が老人と一人の媛を連れて現れた。
 媛の姿を一目見て、賑やかだった座が静まり返った。
 それほど息を呑む美しさだった。
 長い絹の衣を纏い、体の美しい曲線を優しく包んでいる。
 肩に掛けた赤い領巾(ひれ)は、魔除けの力が備わると伝えられる高貴な品である。
 豪族の娘たちがいくら鮮やかな彩色の衣で着飾っていても、この媛の美貌の前では霞んで見える。
 
 皆が茫然とする中、来目が媛を誘って磐余彦の前に(ひざまず)いた。
「大王、事代主(ことしろぬし)さまと踏鞴五十鈴媛(たたらいすずひめ)さまをお連れしました」
 墨坂(すみさか)で出逢った時と同じ、よい香りが匂った。
 磐余彦はなぜか(ほほ)が火照るのを感じた。
 むろん篝火(かがりび)のせいではない。
 三輪の事代主とは旧知の仲で、新たに国を作っていく上でも欠かせない人物である。
 そしてその娘、踏鞴五十鈴媛とは――
「大王の御祝いに参上いたしました」
 事代主と踏鞴五十鈴媛の父娘が(うやうや)しく頭を下げた。

「若い皆さまが集う場に、このような年寄りはふさわしくないと存じましたが、一言お祝いを申し上げたく参上いたしました」
 磐余彦は自ら壇を下りて事代主の手を握った。
「何を(おっしゃ)います。〈ヤマトの父〉と敬う御方にお越しいただき、痛み入ります」
 一同がはっとした。
 磐余彦は踏鞴五十鈴媛の前に歩み寄り、手を握った。
「これから新しき国を作っていかねばなりません。そのために、吾の妻となってともに歩んでいただけませんか」
 一同がふたたび息を呑む。
 踏鞴五十鈴媛は艶やかな笑みを湛え、しかしよく透る声で答えた。
「命あるかぎり、大王とともに」
 
 時を置かず、道臣が高らかに宣言した。
「大王の皇后には、踏鞴五十鈴媛がなられる。皆の者、如何(いかが)なりや!」
「よき(かな)!」
「よき哉!」
 居並ぶ重臣たちも一斉に声を上げて祝福した。
 新皇后、踏鞴五十鈴媛の頬が美しく染まった。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み