第22話 岡水門(おかのみなと)にて
文字数 2,056文字
磐余彦とその一行は、九州の東側、国東 半島沿いの海岸を舟で巡った。
水先案内人は珍彦 改め椎根津彦 である。
椎根津彦は舵さばきもみごとだが、危険な岩礁地帯では舳先に立って船を誘導した。その間の舵取りは隼手に任された。
瀬戸内海の伊予灘 は、関門海峡から吹き付ける北西の季節風で波が荒い。
波の高さはすでに人の腰ほどもある。
まともに波に突っ込めば、たちまち呑み込まれて転覆は避けられない。
そのためできるだけ岸に近い波打ち際を航行した。すると今度は引き波によって危うく沖に運ばれそうになった。
暗礁があればいち早く察知して回避しなければならない。
うっかり乗り上げたらたちまち転覆してしまうからだ。
「右に暗礁がある」舳先に立った椎根津彦が振り返って叫んだ。
「え!?」船尾で舵を握る隼手が慌てる。
「あそこだ。海の色が僅かに変わっている」
磐余彦が指さす。
「本当だ! おい隼手、左に舵を切れ」来目が叫んだ。
「おう!」
隼手は急ぎ舵を左に切った。
それに合わせて椎根津彦が棹 を水中の岩礁に突き立てて、舟を接触させないように突っ張る。磐余彦から授けられた椎の木の棹である。
舟は大きく左に旋回し、すんでのところで水中に隠れた岩との衝突を免れた。
「やったぜ!」
来目が歓声を上げた。
「喜ぶのはまだ早い。ほれ、今度は左に岩が覗いている」
「ほい!」
椎根津彦の指示に隼手がすばやく反応し、今度も狭い岩礁の間を通り抜けることができた。
その後も二人の息の合った行動で危険な海域を通過した。
水先案内人には船首に陣取って航路を指示するだけでなく、水流が急に変化する地点を見極める目も求められる。
「吾らにはとてもできん」
額の汗を拭きながら日臣が舌を巻いた。
国東半島の沖合に浮かぶのが姫島 である。
『古事記』の国産み神話で伊邪那岐 と伊邪那美 が産んだ島の一つ「女 島」とされる。
姫島は黒曜石の産地で、縄文時代から鏃 などに用いられていたことが知られている。
この島特有の灰色がかったガラスのような輝きを放つ黒曜石は、中国、四国、近畿地方から九州南部まで、交易品として広く用いられた。
余談だが、昭和六十(一九八五)年に瀬戸内海を丸木舟で渡る試みが行われた。
愛媛県立松山工業高校の生徒たちが、瀬戸内海西端に浮かぶ大分県姫島から愛媛県松山市まで海路を丸木舟で漕いで渡ったのである。
高校生たちが漕ぐ丸木舟は、姫島を出発して山口県柳井市の平郡島 と愛媛県松山市の由利島 にそれぞれ一泊し、二泊三日の日程で約百四十キロを無事漕ぎきったという。
これにより姫島からの黒曜石の伝播ルートが解明されたのである。
姫島を過ぎれば周防灘 である。ここも椎根津彦の巧みな棹さばきで無事に宇佐の浜に着いた。
宇佐で磐余彦の一行を出迎えたのは宇佐津彦と宇佐津姫の兄妹である。
『日本書紀』には「宇佐津彦がこの地で磐余彦の一行をもてなし、宇佐津姫を侍臣の天種子命 に娶 わせた。天種子命は中臣 氏の先祖である」と記されている。
天皇家と宇佐神宮の繋がりを示した記述であろう。
一行はその後も航海を続け、十一月九日に筑紫(福岡県)の岡水門 に到着した。「記紀」にはその間の記述がないが、関門海峡を抜けたと考えられる。
ここで疑問が湧く。日向を出てヤマトを目指すなら、瀬戸内海をまっすぐ東に向かうのが手っ取り早い。
しかし磐余彦たちはなぜか反対の西に向かって岡水門まで来た。
関門海峡は今なお海上交通の難所として知られる。
時代は下って平安末期の源平合戦でも、壇ノ浦は最後の決戦の舞台として記憶に留められている。
この史上名高い海戦で平家は滅亡した。
平家敗北の最大の要因は関門海峡の潮流を読み誤ったことである。
平家水軍ははじめ長門(山口県)の彦島に陣取り、東から来る源氏の水軍を迎え撃った。
開戦直後の潮流は西から東へ向かい、流れに乗った平家が優勢だった。平家は矢の雨を降らせ源氏を追い詰めた。
ところが午後になり潮の流れが一変した。今度は東から西へと真逆に流れ、攻守が完全に入れ替わった。これに乗じて源義経率いる源氏が反撃を開始し、激闘の末に平家水軍は壊滅した。
幼い安徳天皇をはじめ、平家の主だった人々が入水したことは『平家物語』にも詳しい。
磐余彦がここを通過したのは壇ノ浦の決戦より八百年も前だが、この海の難しさは当然知っていたはずである。
そんな厳しい海を越えてわざわざ岡水門まで来た理由については、専門家も明快な答えを出せずにいる。
思うに、筑紫で補給とともに援軍を募ったのではないだろうか。
一見遠回りするように見えるが、周到な準備をするには必要な旅ではなかったかと考える。
岡水門は、現在の福岡県遠賀 郡芦屋 町を流れる遠賀川河口部にあったとされる。
弥生前期の代表的な土器に「遠賀川式土器」が挙げられるように、遠賀川流域は当時の倭国でもっとも早く開けた地域のひとつである。
出土する土器は壺や甕 、鉢などが多く、この土器の分布が稲作の伝播の指標ともいわれている。
水先案内人は
椎根津彦は舵さばきもみごとだが、危険な岩礁地帯では舳先に立って船を誘導した。その間の舵取りは隼手に任された。
瀬戸内海の
波の高さはすでに人の腰ほどもある。
まともに波に突っ込めば、たちまち呑み込まれて転覆は避けられない。
そのためできるだけ岸に近い波打ち際を航行した。すると今度は引き波によって危うく沖に運ばれそうになった。
暗礁があればいち早く察知して回避しなければならない。
うっかり乗り上げたらたちまち転覆してしまうからだ。
「右に暗礁がある」舳先に立った椎根津彦が振り返って叫んだ。
「え!?」船尾で舵を握る隼手が慌てる。
「あそこだ。海の色が僅かに変わっている」
磐余彦が指さす。
「本当だ! おい隼手、左に舵を切れ」来目が叫んだ。
「おう!」
隼手は急ぎ舵を左に切った。
それに合わせて椎根津彦が
舟は大きく左に旋回し、すんでのところで水中に隠れた岩との衝突を免れた。
「やったぜ!」
来目が歓声を上げた。
「喜ぶのはまだ早い。ほれ、今度は左に岩が覗いている」
「ほい!」
椎根津彦の指示に隼手がすばやく反応し、今度も狭い岩礁の間を通り抜けることができた。
その後も二人の息の合った行動で危険な海域を通過した。
水先案内人には船首に陣取って航路を指示するだけでなく、水流が急に変化する地点を見極める目も求められる。
「吾らにはとてもできん」
額の汗を拭きながら日臣が舌を巻いた。
国東半島の沖合に浮かぶのが
『古事記』の国産み神話で
姫島は黒曜石の産地で、縄文時代から
この島特有の灰色がかったガラスのような輝きを放つ黒曜石は、中国、四国、近畿地方から九州南部まで、交易品として広く用いられた。
余談だが、昭和六十(一九八五)年に瀬戸内海を丸木舟で渡る試みが行われた。
愛媛県立松山工業高校の生徒たちが、瀬戸内海西端に浮かぶ大分県姫島から愛媛県松山市まで海路を丸木舟で漕いで渡ったのである。
高校生たちが漕ぐ丸木舟は、姫島を出発して山口県柳井市の
これにより姫島からの黒曜石の伝播ルートが解明されたのである。
姫島を過ぎれば
宇佐で磐余彦の一行を出迎えたのは宇佐津彦と宇佐津姫の兄妹である。
『日本書紀』には「宇佐津彦がこの地で磐余彦の一行をもてなし、宇佐津姫を侍臣の
天皇家と宇佐神宮の繋がりを示した記述であろう。
一行はその後も航海を続け、十一月九日に筑紫(福岡県)の
ここで疑問が湧く。日向を出てヤマトを目指すなら、瀬戸内海をまっすぐ東に向かうのが手っ取り早い。
しかし磐余彦たちはなぜか反対の西に向かって岡水門まで来た。
関門海峡は今なお海上交通の難所として知られる。
時代は下って平安末期の源平合戦でも、壇ノ浦は最後の決戦の舞台として記憶に留められている。
この史上名高い海戦で平家は滅亡した。
平家敗北の最大の要因は関門海峡の潮流を読み誤ったことである。
平家水軍ははじめ長門(山口県)の彦島に陣取り、東から来る源氏の水軍を迎え撃った。
開戦直後の潮流は西から東へ向かい、流れに乗った平家が優勢だった。平家は矢の雨を降らせ源氏を追い詰めた。
ところが午後になり潮の流れが一変した。今度は東から西へと真逆に流れ、攻守が完全に入れ替わった。これに乗じて源義経率いる源氏が反撃を開始し、激闘の末に平家水軍は壊滅した。
幼い安徳天皇をはじめ、平家の主だった人々が入水したことは『平家物語』にも詳しい。
磐余彦がここを通過したのは壇ノ浦の決戦より八百年も前だが、この海の難しさは当然知っていたはずである。
そんな厳しい海を越えてわざわざ岡水門まで来た理由については、専門家も明快な答えを出せずにいる。
思うに、筑紫で補給とともに援軍を募ったのではないだろうか。
一見遠回りするように見えるが、周到な準備をするには必要な旅ではなかったかと考える。
岡水門は、現在の福岡県
弥生前期の代表的な土器に「遠賀川式土器」が挙げられるように、遠賀川流域は当時の倭国でもっとも早く開けた地域のひとつである。
出土する土器は壺や