第2話

文字数 5,427文字

 船に乗り込んだふたりは、取り敢えず自分たちの船室に向かうことにした。手元にあるチケットに目をやると、D-57号室と書いてある。この船の船室はAからDまでの等級に分かれていて、その上にさらにSランクがあるらしい。Sとはおそらくスイートの事なのだろう。高野内たちの部屋は最も下のランクとなる。
「お嬢様育ちのお前には窮屈じゃないのか? もっと上のクラスじゃないと」
 甲板の長い廊下を歩きながら、高野内は二つの重いスーツケースを引きずり、息を切らしていた。
「商店街の景品だから、そんなに費用は出せないでしょう? それに、その方が却って面白そうじゃない」小夜子はあっけらかんと答える。まったく金持ちの考えることは、よく分からない。
「あんたら、ちょっとええか?」
 不意に後方から急に声を掛けられて、ふたりは思わず振り返った。
 目の前には高野内と同じくらいの三十代後半の男が、扇子を片手に立っていた。ハイビスカスをあしらった派手なアロハシャツに黒の半ズボン、身体は百キロはありそうな肉の塊で、天然パーマらしき短髪頭をしていて、高野内より一回りほど大きな鞄を抱えている。
「あのう……ひょっとして俺たちの事ですか?」
「他に誰がおるっちゅうねん。あんたらや、あんたら」
 高野内は関西人が苦手だった。テレビで見ている分には一向に構わないが、たまに街で遭遇すると、関西特融の独特のノリで彼を圧倒する。小夜子の方を見ると、顔を強張らせており、彼女もまた得意ではなさそうだった。
「どんなご用件ですか?」
 高野内は丁寧に訊いた。
「どうもこうもあるかい! わしの部屋がどこか判からんで困っとるんや。あんた、教えてくれへんかのう」扇子をパタパタさせながら、ハンカチで額の汗を拭った。
「チケットはありますか?」
 巨漢の男は鞄に手を入れると、シワの入った黄色いチケットを取り出した。
「これや」
 受け取ったチケットを見るとC-17号室と書いてある。
「ここはD等のフロアですから、一つ上の階になります」高野内は通路の奥を指差し「この先に階段がありますからそこを利用されてはどうですか」
 男は広げた扇子を、さらに仰ぎながら、顔を歪めた。
「階段は苦手なんやけどな、まあ、しゃあないか。……ありがとな、今度会ったらお礼するわ。そこのべっぴんさんの姉ちゃんも、おおきに」
 会釈をすると、巨漢の男はその脂肪を引きずりながら階段の方へと向かっていった。
「あのおじさんも大変そうね。でも正直ああいうのはちょっと」
 高野内はおどけながら、扇子を仰ぐ真似をした。「ワテもぎょうさん苦手ですわ。ホンマにわやでんがな」
「関西弁が伝染っているわよ。それに、その言い回しってホントに合ってるの?」

 ふたりは通路を進み、やがて目的のD-57の部屋の前までたどり着いた。
 カードキーを差し込み、ドアを開けると、最低ランクとは思えない程、中は広々としていた。ドアはオートロック式で、閉めると勝手にロックが掛かる仕組みだ。バスタブは無かったが、狭いながらもシャワー室とトイレが別になっている。小型の液晶テレビにドリンクの入った冷蔵庫。清潔感溢れる空間は、少なくとも彼の事務所や、常宿としている場末のビジネスホテルよりも、よっぽどレベルが高い。はめ殺しの小さな丸い窓には、薄手のカーテンが掛かっていて、開いてみると、そこからは残念な事に海は見えず、廊下の壁が申し訳なさそうに覗いていた。
 だが、その部屋の中央には高野内が想像もしていなかったものが並んでいた。
「おい、どうしてベッドが二つもあるんだ。部屋は一つしかないのか?」
「あら、知らなかったの? D等ですもの。何を期待していたのかしら」
「まさか、お前と同じ部屋で寝るのかよ。聞いてないぞ」
「昨日のパンフレット、よく見なかったの? ちゃんと『ペアでご招待』って書いてあったでしょう。だったらひと部屋のツインに決まっているじゃない」
「だからって、これから一週間もこの部屋で寝泊まりするんだろう? さすがにそれはマズいって。今からでも別の部屋を取ろうぜ」
「もう満室だから無理よ。それにこの船にシングルは無いから、仮に部屋が取れたとしてもそれなりの料金を取られるわよ」何でもない顔をしながら、小夜子はベッドに腰を下ろした。「大丈夫。あなたの事を信用しているから」
 それでも高野内としては納得がいかない。
「しかし、そうは言っても、もし俺が変な気を起こしたらどうする?」
「その時に備えて、ちゃんと用意してあるわよ」
 すると小夜子はスーツケースを開け、中からアイスピックを取り出した。
「もし手を出してきたら、これで突き刺すわよ」不敵な笑みを浮かべて、それを振り下ろし、突き刺す仕草をみせる。
 それから、スーツケースから取り出した茶色の袋をひっくり返し、催涙スプレー、防犯ベル、登山ナイフ、折り畳み式の警棒などをベッドの上に撒き散らした。よく見るとスタンガンらしき物まである。
「信用しているが聞いて呆れるよ。ガチガチの重装備じゃないか」
 ため息をつかずにはいられない高野内であった。

 あらかた荷物の整理も終え、いよいよ出港の時刻が迫ってきた。ふたりは展望デッキに上がると、そこは既に、大勢の人であふれかえっていた。人混みをかき分けて、ようやく港が見下ろせる高台に立つと、波止場には見送りらしい人と、スタッフらしき人達が、こちらに手を振っている様子が望めた。
 ボォーーー!
 やがて、体が振動する程、大きな汽笛が鳴ると、見送る人たちの姿がゆっくりと離れていき、港が小さくしぼんでいく。
 ついさっきまで高野内たちがいた陸地が水平線の彼方に消えていき、やがてすっかり海に沈むころには、あれだけごった返していたデッキも、人影がまばらになっていた。西の空には、夕日が半分雲に隠れながらも、弥生丸全体をオレンジ色に染め上げていく。

「そろそろ夕食でも取りに行こうか」部屋の時計が六時半になっているのを確かめながら、そう声を掛けると、小夜子は元気よく頷いた。
 廊下に出て、壁に貼ってある船内図を頼りにレストラン街のあるフロアへと昇ると、ふたりはバイキング式の洋食レストランに入った。中はすでに大勢の客で賑わい、クラシックのBGMの中に、あちこちで船出を祝う乾杯の声と、グラスを合わせる甲高い音色が響き合っている。期待していた窓際の席は、もう埋まっており、仕方なく中央寄りのテーブルに身を置くことにした。
 ふたりは料理の並んである奥の台に向かうと、そこには見事なまでの高級料理が並べてあった。行列のできているローストビーフのコーナーでは、真っ白なエプロンを身にまとっている白人のシェフが、華麗な手さばきで、それを切り分けている。高野内はその列に何回も並び直し、山盛りのローストビーフを皿に盛ると、続いて厚切りのステーキ、舌平目のムニエル、仔羊のソテーといった、普段は滅多に口にしない料理をトレイに乗せて席へと戻った。
「まさか、それ全部食べ切るつもり?」
 大量に盛られた皿を見た小夜子は、目を丸くして手にしたナイフを彼に向けた。
「おいおい、ナイフを人に向けるのはマナー違反だろ。それに腹が減っては何とやらでね。せっかくのご馳走、堪能しないとお前の世話なんか焼けないからな」
「よく言うわ。お腹いっぱいになって、もし私が誰かに襲われでもしたら、あなた、私を守れるの?」
「大丈夫。誰もお前なんかを襲いはしないよ。それに、そのためのスタンガンなんだろ?」
「あれは、あくまでもあなたへの護身用。こんなところに、わざわざ持ってこないわよ」
 頬杖を突いて呆れる小夜子をよそに、高野内はどんどん箸を進めていく。
 やがて全ての皿を平らげると、並々に注いだワインを飲み干し、豪快に爪楊枝を歯に当てた。
「ちょっと! ちゃんと手で隠しなさいよ。見苦しいでしょう」
 高野内は、ワザとらしくシーハーと音を立てながら周りを見渡す。
「誰も俺たちの事なんか見てやしないよ。みんな自分の事にしか興味ないんだから」
 すると高野内の背後から急に男性の低い声が聞こえた。
「お食事中にすみません。もしかすると探偵の高野内先生ではありませんか?」
 とっさの事に、くわえた爪楊枝を床に落とし、靴でそれを隠しながら反射的に振り返った。
 そこには一人の男が立っていた。年の頃は五十代前半、高級そうなブランドのスーツ姿で、髪は七三に分けてあり、フチなしの細い眼鏡をかけている。その奥からは、くぼんだ鋭い目を覗かせ、やせ型の、それでいて引き締まった筋肉質の体形で、やり手のビジネスマンの印象だった。
「そうですが、あなたは?」高野内は突然のビジネスマンの登場に戸惑いつつも、警戒の色を浮かべた。
「私は都内で宝石商を営んでおります、北鳴門(きたなると)と言います」その男は懐から名刺入れを取り出すと、中の一枚を高野内に渡した。
 確認してみると、『ギャラリー北鳴門 代表取締役 北鳴門大輔(だいすけ)』とあった。ギャラリー北鳴門と言えば、全国でも支店を多く抱える一流の宝石店だ。高野内も往年の人気女優が出ているCMを何度か目にしている。
 どう対応してよいかわからず、高野内は返答に困っていると男はこう続けた。
「こんなところであの高名な高野内先生とお会いできるとは、夢にも思いませんでした。先生もこのクルーズに参加されていらっしゃるんですね」
「ええ……まあ、その……成り行きで……」
 言葉に詰まり、しどろもどろの高野内。それを見ていた小夜子は、急に咳払いをして、二人の間に割って入った。
「エヘン。私たちは、ある方の依頼で、ある所に向かっております。守秘義務がありまして詳しくは申せませんが、そこのところご配慮願いたく存じます」
 小夜子のやつ、また適当な事言いやがって。
 妙にかしこまった口調で小夜子はそう言い放つと、北鳴門は恐れをなしたのか、体制を少し崩し、高野内に小声で訊いた。
「あの、こちらの方は?」
 すると高野内は何て言ったらよいか困惑し、言い淀んでいると、またもや小夜子が声を出した。
「私は高野内の助手の峰ヶ丘小夜子と申します。あいにく名刺を切らして、おりまして申し訳ございません」
 いつから俺の助手になったんだと、突っ込みを入れたかったが、北鳴門の手前、この場は敢えて小夜子の話に乗ることにした。
「ええ、そうなんですよ。こいつはまだ新人のペーペーでして。他の者が調査に出払っていてコレしか残っていなかったものだから、仕方なく同行させました」
 テーブルの下で、小夜子は、思い切り高野内の足を蹴った。ハイヒールの尖った先がスネに命中すると、声を殺しながら悶絶した。
「どうかしましたか?」北鳴門は心配そうな色を浮かべている。
「いえ、何でもありません」
 すると、北長門は軽く高野内の肩に手を置き、顔を近づけてた。
「ご相談したい事があります。明日のお昼一時に展望デッキに来ていただけますか」そう耳元でささやくと、高野内の返事も待たずに、レストランの人ごみの中へと消えていった。
「何、今の人。何だか感じ悪い」小夜子はすかさず仏頂面になった。
高野内はワインをすべて飲み切り、「それより、どうしてお前が俺の助手なんだよ」と、小夜子に詰め寄った。
「だって、その方が面白そうじゃない。それとも正直に『十七の小娘が、このヘボ探偵にお守をしてもらっています』って言った方が良かったかしら」
「言い方ってものがあるだろ、言い方ってものが。誰がヘボ探偵だ」
「じゃあ何て言ったら良かったのかしら?」
「例えば……そうだな……もちろん……その……」適当な言葉が浮かばずに、言い淀んでしまう。
「ほら、やっぱり何も出てこないじゃないの」
「うるさい!」
 誤魔化すようにそそくさと立ち上がり、ワインセラーで空になったグラスにお代わりのワインを注ぐと、それを傾けながら席へと戻った。
 それを待っていたかのように、小夜子は疑問を提示した。
「ねえ、そういえばさっきの北鳴門さん……だっけ。あなたになんて言っていたの?」
「お前には関係ない話だ」
「たしか『相談したい事があるから、明日の一時に展望デッキに来てください』とかなんとか」
「何だ、全部聞こえているんじゃないか。地獄耳だな」
「行くの?」
「行くわけ無いだろ。ただでさえお前のお守が大変なのに、これ以上変な事には巻き込まれたくはない」
「そうかしら? もしかすると仕事の依頼かもよ」
 小夜子は口元をニヤリと歪め、手にしているフォークにショートケーキのイチゴを突き刺すと、高野内の目の前に突き出し、クルクルとまわし始めた。
「止めろよ煩わしい。行かないって言ったら絶対行かない」
「本当? もし行くときは助手の私も連れて行ってね」
「だから行かないって言ってるだろう!」
 高野内は北鳴門の言葉が引っ掛かりつつも、明日は一日中部屋に籠ると決め込んでいた。少なくともこの時点までは。
「そういえば、まだだったな」不意に思い出し、言葉を発した。
「まだって何が?」
「出航の乾杯」
 ワイングラスを持ち上げると、小夜子のシャンパングラスにそっと当てて、音を鳴らした……。
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