第4話
文字数 3,034文字
エレベーターを待つ間に、自動販売機でペットボトルのミネラルウォーターを買うと、それを一気に消費し、くしゃくしゃに丸めてくずかごに入れた。
やがて扉が開き、スイートルームのフロアのある階のボタンを押すと、その籠が地獄への棺桶に思え、徐々に緊張が高まり、鼓動が早まっていくのを感じる。
到着のチャイムで扉が開くと、エレベーターホールを左へ曲がり、見慣れたあの広場に出た。ここからは北鳴門の部屋を含む、四つのスイートルームのドアがある廊下が見渡せるので、ここを拠点としてベンチに座りながら監視する予定だった。
到着を知らせようと北鳴門の部屋に向かおうとしたが、フラワーガーデンの傍の壁際のベンチに見慣れた人影が手と足を組みながら座っていた。
彼女は高野内を見上げながら頬を膨らませて声を出す。
「遅い! 六分の遅刻よ」
小夜子だった。
厳しい口調を向ける小夜子。
目に充血の色を見せる小夜子。
喧嘩別れしてまだほんの数時間しか経っていないはずなのに、どこか懐かしい匂いのする小夜子……。
「……どうして……」
唖然とする高野内は、二の句を出せずにいた。
「名探偵を自称するくせに、時間もちゃんと守れないの? やっぱり廃業したら?」
憎まれ口を叩かれて、自称名探偵は自然と顔がほころぶ。
「どうしてここにいるんだ。俺はクビになったんだろ?」
「勘違いしないで。もうあなたとの契約は無効よ……だから私がどこにいようが、あなたには関係ないはずでしょ?」
「ここにいたら危険だと言った筈だ。お前を守り切る自信はどこにもない」
「わかってるって。――あなたの言う通り、私の身は自分でちゃんと守ります」
小夜子は、隣に置いてある大き目のショルダーバッグを開けると、中から鈍色に光る拳銃を取り出し、銃口を高野内に向けながら、不敵な目でゆっくりと立ち上がる。高野内は突き付けられた銃口を前に、両手を挙げるしかなかった。
彼女の口調が悪魔のそれになる。「油断したわね、高野内和也。あれだけ一緒にいたのに、私の正体には気づかなかったのかしら? 名探偵が聞いてあきれるわ」
まさか、小夜子が怪盗シャッフルだったのか?
「おい、やめろ! お前には隠していたが、俺には病気の妻と幼い子供がいるんだ。何でも言う通りにするから命だけは助けてくれ」
「今さら命乞い? あなたらしいわね。クレオパトラの涙は私が頂くわ。あの世で後悔しなさい!」
目の前の女は、何のためらいもなく引き金を引いた。その瞬間、左胸に衝撃が走る。うめき声を上げて、両手で心臓を押さえながら、両膝を床へと落とし、敗北の探偵は人生最後のまぶたを閉じた。
コロン。
手の中から何かが床に転げ落ちた。復活した探偵は二度目の人生の最初のまぶたを開くと、目の前に小さな丸い球が転がっている。胸の衝撃は、もうすっかり引いていた。そういえば拳銃にしては撃った時の音が軽すぎる。バン、というよりパシュッ、といった感じだ。試しに両手を広げてみると思わず叫んだ。「何じゃ、こりゃあ!」その手には何もついていなかった。
悪魔から天使へと豹変した元探偵助手は、してやったりの表情を浮かべ、
「どう? 驚いた? 大丈夫、エアガンだから安心して。――よく出来ているでしょう? ここのショッピングモールには、いろんなものが売ってあるのよ」
「びっくりさせるなよ。本当に撃たれたかと思ったぜ。ここではこんな物騒な物まで売ってあるのか」
ホッとして胸を撫でおろす高野内。考えてみれば小夜子の正体が本当に怪盗シャッフルであって、それに気づかなかったとすれば、それこそ彼女の言う通り廃業するしかない。
「それにしても、今の慌てぶりは何? 病気の妻がどうしたって?」白い眼で口元を歪めた小夜子は腰に手を当てながら高野内に詰め寄った。
「あれは……お前を油断させるための芝居だ。一見怯えているように見せかけて、一瞬の隙をつき、反撃に転じる。――俺のような選ばれた名探偵だけに許された高等テクニックだ」
「……へえ~、さすがね。迫真の演技だったわ。だって、完全にビビっているようにしか見えなかったんですもの。――でもその割には、全然反撃せずに、見事に撃たれていましたけど」
「それは……その拳銃が偽物だと見破って、敢えてお前に乗ってやったんだ」
「……それはわざわざお付き合い下さって、ありがとうございました」呆れを通り越して、何の感情も無い口ぶりだった……。
「そうそう、買ったのはこれだけじゃないわ。他にもいろいろとあるのよ」
小夜子はショルダーバッグの中に手を入れると、四次元ポケットのように、いろんな物が次々と出てきた。
「まずは催涙スプレーね。これは前のより強力なヤツよ。次に防犯ベル。こっちのはちょっと音量が弱いけど、それは仕方が無いわね。それに肉切り包丁。肉切りって響きが、いかにも威力ありそうでしょう? 本当はスタンガンも欲しかったけど、それはさすがに見つからなかったわ。あとはシャッフルを捕まえた時に必要なロープと手錠。――そうそう普通の物が無かったけど、プリペイド式のシンプルな携帯電話も用意したわ、もちろんWi-Fi対応のね。前のデータが引き継げないのが残念だけど。――残るは懐中電灯でしょう、ビスケットにキャンディー、グミにバナナ。それとジュースに……」
用意周到なやつだ。俺がバーでだらだら飲んでいる時、小夜子はこんな準備をしていたのか。それにしても、後半はまるで遠足のおやつだ。こいつはピクニック気分なのか。
そこで高野内は本来の目的を思い出す。
「あ、忘れるところだった。北鳴門さんに配置についたことを報告しないと。――やばい、ここに来てもう三十分以上も経っているじゃないか」
高野内は慌てて北鳴門の部屋へと足を向けたが、すぐさま小夜子が腕を引いた。
「とっくに寺山田さんに報告してます。ここに着いた時、いの一番にね。――感謝しなさい、おかげであなたは、定刻通りにここに着いたことになっているんだから……あ、そうそう、あなたが来る少し前に、妙子さんが部屋に戻ったわよ。何でも、不安だからって、ワインを買いに行っていたらしいの。デービッドさんも一緒だったわ。大丈夫ですかと声を掛けたら、『平気です。高野内さんにもよろしくお伝えください』だって」
「そうか、それはすまなかった。さすがは小夜子だ、感謝するよ。……ところで、感謝ついでに、俺にもなにか武器を貸してくれないか」
「そう言うだろうと思って、ちゃんと用意しているわ。――はい、これ」
小夜子はバッグから真っ黒なヌンチャクを取り出した。
「えっ、これ?」
「確か以前、ヌンチャクの扱いは得意中の得意で、腕前はブルース・リー並みだと自慢していたでしょう」
そのことは憶えている。何かの拍子でヌンチャクの話題が出た時に、そう言ったのだ。実際は、中学の頃クラスメートが学校に持ってきたやつを借りて振り回した。その時調子に乗って案の定自爆し、体中にアザが出来たという苦い過去があった。それ以来、一度も触った事が無い――なんて今更とても言えない。
「あ、ありがとう。これがあれば鬼に金棒、次元にマグナム、キン肉マンに牛丼だな」
震えながら受け取ると、高野内は精一杯の強がりを言うしかなかった。
今ほど、怪盗シャッフルが現れるなと、強く願ったことはない。
やがて扉が開き、スイートルームのフロアのある階のボタンを押すと、その籠が地獄への棺桶に思え、徐々に緊張が高まり、鼓動が早まっていくのを感じる。
到着のチャイムで扉が開くと、エレベーターホールを左へ曲がり、見慣れたあの広場に出た。ここからは北鳴門の部屋を含む、四つのスイートルームのドアがある廊下が見渡せるので、ここを拠点としてベンチに座りながら監視する予定だった。
到着を知らせようと北鳴門の部屋に向かおうとしたが、フラワーガーデンの傍の壁際のベンチに見慣れた人影が手と足を組みながら座っていた。
彼女は高野内を見上げながら頬を膨らませて声を出す。
「遅い! 六分の遅刻よ」
小夜子だった。
厳しい口調を向ける小夜子。
目に充血の色を見せる小夜子。
喧嘩別れしてまだほんの数時間しか経っていないはずなのに、どこか懐かしい匂いのする小夜子……。
「……どうして……」
唖然とする高野内は、二の句を出せずにいた。
「名探偵を自称するくせに、時間もちゃんと守れないの? やっぱり廃業したら?」
憎まれ口を叩かれて、自称名探偵は自然と顔がほころぶ。
「どうしてここにいるんだ。俺はクビになったんだろ?」
「勘違いしないで。もうあなたとの契約は無効よ……だから私がどこにいようが、あなたには関係ないはずでしょ?」
「ここにいたら危険だと言った筈だ。お前を守り切る自信はどこにもない」
「わかってるって。――あなたの言う通り、私の身は自分でちゃんと守ります」
小夜子は、隣に置いてある大き目のショルダーバッグを開けると、中から鈍色に光る拳銃を取り出し、銃口を高野内に向けながら、不敵な目でゆっくりと立ち上がる。高野内は突き付けられた銃口を前に、両手を挙げるしかなかった。
彼女の口調が悪魔のそれになる。「油断したわね、高野内和也。あれだけ一緒にいたのに、私の正体には気づかなかったのかしら? 名探偵が聞いてあきれるわ」
まさか、小夜子が怪盗シャッフルだったのか?
「おい、やめろ! お前には隠していたが、俺には病気の妻と幼い子供がいるんだ。何でも言う通りにするから命だけは助けてくれ」
「今さら命乞い? あなたらしいわね。クレオパトラの涙は私が頂くわ。あの世で後悔しなさい!」
目の前の女は、何のためらいもなく引き金を引いた。その瞬間、左胸に衝撃が走る。うめき声を上げて、両手で心臓を押さえながら、両膝を床へと落とし、敗北の探偵は人生最後のまぶたを閉じた。
コロン。
手の中から何かが床に転げ落ちた。復活した探偵は二度目の人生の最初のまぶたを開くと、目の前に小さな丸い球が転がっている。胸の衝撃は、もうすっかり引いていた。そういえば拳銃にしては撃った時の音が軽すぎる。バン、というよりパシュッ、といった感じだ。試しに両手を広げてみると思わず叫んだ。「何じゃ、こりゃあ!」その手には何もついていなかった。
悪魔から天使へと豹変した元探偵助手は、してやったりの表情を浮かべ、
「どう? 驚いた? 大丈夫、エアガンだから安心して。――よく出来ているでしょう? ここのショッピングモールには、いろんなものが売ってあるのよ」
「びっくりさせるなよ。本当に撃たれたかと思ったぜ。ここではこんな物騒な物まで売ってあるのか」
ホッとして胸を撫でおろす高野内。考えてみれば小夜子の正体が本当に怪盗シャッフルであって、それに気づかなかったとすれば、それこそ彼女の言う通り廃業するしかない。
「それにしても、今の慌てぶりは何? 病気の妻がどうしたって?」白い眼で口元を歪めた小夜子は腰に手を当てながら高野内に詰め寄った。
「あれは……お前を油断させるための芝居だ。一見怯えているように見せかけて、一瞬の隙をつき、反撃に転じる。――俺のような選ばれた名探偵だけに許された高等テクニックだ」
「……へえ~、さすがね。迫真の演技だったわ。だって、完全にビビっているようにしか見えなかったんですもの。――でもその割には、全然反撃せずに、見事に撃たれていましたけど」
「それは……その拳銃が偽物だと見破って、敢えてお前に乗ってやったんだ」
「……それはわざわざお付き合い下さって、ありがとうございました」呆れを通り越して、何の感情も無い口ぶりだった……。
「そうそう、買ったのはこれだけじゃないわ。他にもいろいろとあるのよ」
小夜子はショルダーバッグの中に手を入れると、四次元ポケットのように、いろんな物が次々と出てきた。
「まずは催涙スプレーね。これは前のより強力なヤツよ。次に防犯ベル。こっちのはちょっと音量が弱いけど、それは仕方が無いわね。それに肉切り包丁。肉切りって響きが、いかにも威力ありそうでしょう? 本当はスタンガンも欲しかったけど、それはさすがに見つからなかったわ。あとはシャッフルを捕まえた時に必要なロープと手錠。――そうそう普通の物が無かったけど、プリペイド式のシンプルな携帯電話も用意したわ、もちろんWi-Fi対応のね。前のデータが引き継げないのが残念だけど。――残るは懐中電灯でしょう、ビスケットにキャンディー、グミにバナナ。それとジュースに……」
用意周到なやつだ。俺がバーでだらだら飲んでいる時、小夜子はこんな準備をしていたのか。それにしても、後半はまるで遠足のおやつだ。こいつはピクニック気分なのか。
そこで高野内は本来の目的を思い出す。
「あ、忘れるところだった。北鳴門さんに配置についたことを報告しないと。――やばい、ここに来てもう三十分以上も経っているじゃないか」
高野内は慌てて北鳴門の部屋へと足を向けたが、すぐさま小夜子が腕を引いた。
「とっくに寺山田さんに報告してます。ここに着いた時、いの一番にね。――感謝しなさい、おかげであなたは、定刻通りにここに着いたことになっているんだから……あ、そうそう、あなたが来る少し前に、妙子さんが部屋に戻ったわよ。何でも、不安だからって、ワインを買いに行っていたらしいの。デービッドさんも一緒だったわ。大丈夫ですかと声を掛けたら、『平気です。高野内さんにもよろしくお伝えください』だって」
「そうか、それはすまなかった。さすがは小夜子だ、感謝するよ。……ところで、感謝ついでに、俺にもなにか武器を貸してくれないか」
「そう言うだろうと思って、ちゃんと用意しているわ。――はい、これ」
小夜子はバッグから真っ黒なヌンチャクを取り出した。
「えっ、これ?」
「確か以前、ヌンチャクの扱いは得意中の得意で、腕前はブルース・リー並みだと自慢していたでしょう」
そのことは憶えている。何かの拍子でヌンチャクの話題が出た時に、そう言ったのだ。実際は、中学の頃クラスメートが学校に持ってきたやつを借りて振り回した。その時調子に乗って案の定自爆し、体中にアザが出来たという苦い過去があった。それ以来、一度も触った事が無い――なんて今更とても言えない。
「あ、ありがとう。これがあれば鬼に金棒、次元にマグナム、キン肉マンに牛丼だな」
震えながら受け取ると、高野内は精一杯の強がりを言うしかなかった。
今ほど、怪盗シャッフルが現れるなと、強く願ったことはない。