第3話

文字数 5,212文字

 二時間ほどでショーが終わり、劇場から人の波に押されて、ふたりが出ていくと、エレベーターホールは順番待ちの人で溢れかえっていた。仕方なくというか、なんとなくというか、ふたりはまだ物足りないといった素振りで自然にバーへと向かった。
 二十四時間営業のその店は、昼間は喫茶店、夜はナイトバーの顔を見せているらしい。
 店内に入ると、そこにはピアノとトランペットによる生演奏の小粋なジャズが流れ、間接照明を多用した、落ち着いた大人の雰囲気が漂っている。テーブル席は既に埋まっており、ふたりはカウンター席に並んで腰を下ろした。
 バーテンダーに声をかけ、高野内はブランデーを、小夜子はこの店のオリジナルだというマンゴスチンのカクテルを頼んだ。
「いよいよ勝負は明日ね」薄明りの下、小夜子は険しい顔で言った。
「ああ、何事も起きなければいいけどな」
 ふたりは明日の無事を祈って乾杯すると、小夜子はカクテルを一気に飲み干し、今度はジントニックを注文した。
「おい、大丈夫か? ちょっとペースが早すぎるぞ……って、よく考えたら、お前、まだ未成年じゃないか」
「いいの。家でも時々パパの晩酌に付き合っているし、これくらい全然平気よ」
「そういう問題じゃないだろう。もしバレたらどうするんだ」
「大丈夫よ。ここに警察はいないから」
「だから、そういう問題じゃないって」
「あなた、私のボディーガードなんでしょう? だったらおとなしく私の警護に専念すればいいのよ」
 妖艶な顔を高野内に見せると、一瞬、彼女が大人びて見えた。それに気づかないふりをして、おどけながら顔を歪める。
「お前、武器をたくさん持っているだろ。いざとなったら、俺は要らないんじゃないか?」
「ああ、スタンガンのこと? それとも警棒? ナイフ? 昨日も言ったけど、あれは、あくまでもあなたへの護身用。普段は持ち歩かないわ。当然でしょう?」
「でも、明日は少しくらい武装した方がいいかもしれないな。真面目な話」
「そうね。もしシャッフルが現れたなら、私がとっちめてやるわ」
「相手が複数だったらどうするんだ。頼むから危険な真似はしないでくれ」
「大丈夫、武器の扱いには慣れているから。奴らが何人でも一網打尽にしてあげるわ」
「お前、もう酔っているんじゃないか」
 小夜子は、既にお代わりのスクリュードライバーを頼んでいた。頬がほんのりと赤みを帯びている。
「酔ってますよ。『クレオパトラの涙』に!」
「その話はよせ。誰かに聞かれたらどうするんだ」
 しかし、小夜子は臆することなく、カクテルグラスに瞳をかざす。
「あーあ。ものすごく素敵だったわね。もう一回見たいな。怪盗シャッフルが盗みに成功して、もし飽きたら私にくれないかなあ」
「あのな、そんなバカみたいな可能性、二千パーセント無いぞ」
「そうかしら。あなたが結婚できる可能性よりは、はるかに高いと思うけど」
「お前、俺の事どんな風に見ているんだ!」
「別に。わたしは客観的事実を述べているだけですけど」
 小夜子はそういって灰皿を手元に引き寄せた。
「まさかお前、煙草も吸うのか?」
「ええ、メンソールだけどね。家で読書や勉強している時なんか、いい気分転換になるわ」うっとりとした顔になった途端、急に真顔へ変貌した「なんて冗談よ。あなたが吸いたいだろうと思って」
 小夜子にはいつもドキドキさせられる。彼女が初めて高野内の事務所を訪れてからずっとだ。もちろん、それは、いわゆる恋愛的なものでは……ない。
「いや、今は止めておくよ」
「どうして? 吸いたくないの」
「いや、君が、煙の臭いが苦手な事を知っているからね」
「いつもは私の前でも平気でスパスパやっているのに?」
「今夜は特別だ。レディーの前だからね」
「あら、私をレディー扱いしてくれるの?」
「ああ、俺も少し酔ったみたいだからな」
「酔わないとレディーとして見てくれないの?」
 その問いかけには答えず、ブランデーを一気にあおる。
 やがて、ピアノソロの演奏が始まると、その調べに溶け込んでいった。
 見るとはなしに周りを見廻すと、一番奥にあるテーブルに目が止まる。思わず腰が抜けそうになった高野内は、胸の鼓動が早まるのを感じた。
 視線の先には、昨夜、映画館の前で見かけたあの人物が、ガタイの良い男と会話を楽しんでいる。つまり、昨日見かけたのは見間違いではなかったのだ。時折聞こえる笑い声が耳に入ると、居ても立ってもいられずに自然と足が動いた。
「ちょっと、どこ行くのよ」
 小夜子の声は耳に入らず、ふらふらと引き寄せられるように、二人のテーブルへと近づいていく。
「すみません。……あの、大野城エイラさんですよね、グラビアアイドルの」緊張で声が震える。
「ええ、そうよ。あなたは?」
「高野内といいます。あなたの大ファンなんです。あなたに会えて、今、とても感激しています」
 大野城エイラ。彼女こそ高野内探偵事務所に貼ってあったポスターの張本人であった。 ウェブサイトの公式プロフィールによると、ノルウェー人の父と日本人の母を持つハーフで、十四歳の時に渋谷の一〇九でスカウトされ、モデルデビューを果たし、めきめきと頭角を現すと、十七歳の時に有名グラビア雑誌で、人気投票一位を記録した。その後の活躍も目覚ましく、写真集やDVDは飛ぶように売れ、彼女の主演した映画は、その年の興行成績で三位を獲得し、女優としての評価も高めた。二十六歳になった今でもテレビや雑誌で大活躍している。もちろん高野内も彼女の写真集やDVDは全部持っているし、インスタもフォローしているが、実際に本人を目の前にすると、改めて彼女のきらびやかさが胸に刺さり、ハートを鷲掴みにされた。
 エイラはシックな黒のドレスにパールのネックレス。透き通る程の白い肌は、薄明りの下でもはっきりと判る。トレードマークのワンレンから漂う、ほんのりとした甘い香りが鼻腔を支配すると、彼女こそが『クレオパトラの涙』にふさわしいと、そのダイヤのネックレスをしたエイラの姿を想い描いた。
「おい君、失礼じゃないか。彼女は今、プライベートなんだぞ」
 幻想の世界が音を立てて弾けた。
 エイラの向かいに座る男は、厳めしい顔を高野内に向ける。歳は五十歳くらいだろうか。背筋をピンと伸ばし、きりりと引き締まった姿勢をして、肩章のある制服を着ている。おそらく船の関係者、それも船長クラスだと思われるのだが、もしそうだとしたら果たして制服姿でお酒を呑んで良いのだろうかと、少し不安になった。彼もまたプライベートなのかもしれないが、せめて上着を脱ぐか、制服が隠れるようなジャケットを、上から羽織って欲しいところである。
「まあいいじゃないですの。せっかくの数少ないファンなんだから」
 他人が言ったら嫌味にしか聞こえないだろうが、エイラの言葉は高野内を泥酔させた。
「ありがとうございます。良ければ握手してもらえますか?」
「もちろんよ。これからも応援よろしくね」
 エイラは、白く細い手を差し出すと、天にも昇る気持ちで、彼女の柔らかい手を両手でしっかりと包み込んだ。
「そういえば、昨日、映画館にいませんでしたか? ザ・スティングの」
「見ましたけど。――もしかして、その時に高野内さんもいらしたの?」
「ええ、まあ」もちろん小夜子が一緒だったとは言わない。
「もういいだろう、早く自分の席に戻り給え」
 男は明らかに苛立っている様子だ。名残惜しいが、ここは退散するしかないだろう。
「ありがとうございました。もう一生手を洗いません」
 まるで中学生のような台詞だが、陶酔した高野内は本気でそう思ったのだった。
「あなた、お仕事は何をしているのかしら?」
 エイラの言葉に動揺を隠せなかった。
「一応、探偵をしています」
 照れながらそう答えると、男は興味を持ったのか、それまでの態度を少し和らげ、身を乗り出してきた。
「探偵? まさか君が、あの高野内和也さんですか」どうやら高野内の事を知っているらしい。
「ご存知なの? この人の事」
「ああ、結構有名な探偵さんだよ。私が知っているくらいだからな。なんでも当てずっぽうの推理を繰り広げて犯人を油断させ、最後にビシっと解決する。週刊誌で面白おかしく書いてあったよ。――てっきりフィクションだと思っていたが、まさか実在するとはな」
「ご存知いただいて光栄です」
 高野内は深く頭を下げると、安堵のため息をついた。その記事の事は知っていたが、もう少し上手に書いて欲しかった。もっとも当てずっぽうの推理に間違いはなかったのだが。
「ところであなたは?」男の言葉に気を良くして、思い切って訊いてみた。
「私はこの船の副船長で、飯田橋(いいだばし)といいます。こんなところで大先生とお会いできるとは、この仕事もたまにはいいことがあるもんだな」
 エイラは高野内に向き直ると、少しかしこまりながら会釈をした。
「そんなに有名な方とは露知らず、失礼しました。あなたのような方が、私のファンだなんて、お世辞でも嬉しいわ」
「お世辞だなんてとんでもない。あなたの写真集は全て持っていますよ。特に一昨年発売された『情熱野原』は特に気に入っています。あとDVDやインスタも……」
 そこで飯田橋が言葉を遮った。
「悪いがその話は、また今度聞かせてもらうことにしよう。彼女も連日の撮影で疲れているんでね」
 当のエイラも申し訳なさそうに、「ごめんなさい。またどこかでお会いした時は、是非あなたの活躍を聞かせてくださいね」と顔を傾げた。
「お疲れのところ失礼しました。狭い船内ですから、必ずどこかでお会いできることを信じています」
 飯田橋の目が曇った。“狭い船内”と言う言葉に反応したのだろう。彼は日本一、いや東洋一とも評される弥生丸の副船長という立場に、誇りを持っているのだと推測される。
 後ろ髪を引かれる思いで、小夜子のもとに帰ると、顔を真っ赤にしながらモスコミュールを傾けていた。顔の赤い理由は飲み過ぎのせい……だと信じたい。
「あら、もういいのかしら?」
 彼女の口調はいつになく刺々しい。
「ああ、まさかこんなところに大野城エイラがいるとは思わなかったよ。でも実際会ってみると、案外大した事無いな」
「その割には顔がにやけてますけど」
「そんな事ないさ。最近はメイクの技術がすごいから、誰だってあれくらいなれるよ」
「そうかしら? じゃあ私もメイクの勉強でもしようかな」
「お前は無理だ。元が違い過ぎる」
「あなたに言われたくないわ。自分の顔、鏡で見たことある? かなりの間抜け面よ」
「そうかもな、お前程じゃないけど」
 気が付くと、小夜子はテキーラサンライズを煽っていた。
「そういえばあの二人、なんだか怪しくない?」
「え? まさかエイラちゃんが怪盗シャッフルとでも言いたいのか? いいか、彼女はな……」
「違うわよ。何だかいい雰囲気でしょ? もしかしたら付き合っているんじゃないの、あの二人」
 思わず息を飲む。
「そんな訳ないさ」そう言いつつも、改めて思い返すと、あの感じはやはりカップルにしか見えない。さっきまで好印象だった副船長の飯田橋が、急に恨めしく思えてきた。
「でも歳の差からいって愛人なのかもしれないわ。まさか親子って事は無いんでしょう?」
「エイラちゃんの父親はノルウェー人だから、その可能性は無いだろう。ただの知り合いさ」
「でも、ただの知り合いにしては、さっきから彼女の手を何度も握っているわ。おそらく“ただならない関係”なのよ」
「エイラちゃんはハーフだから、誰とでもあんな風にフランクに接するんだよ……それに、もしお前の言う、“ただならない関係”だとしたら、トップグラビアアイドルが、変装もせずに、こんなところにいる訳ないだろう」
「まあ、どちらにしても、私には関係無いけどね」
 ぷいとそっぽを向く小夜子。高野内はエイラの弁護に必死である。
「エイラちゃんは優しんだよ。さっきもプライベートなのに、いきなり現れた俺の手をしっかりと握ってくれたし」
「ただの握手でしょ? 有名人だからそれくらいすると思うわ。――それにしてもあなたこそ何? さっきから、エイラちゃん、エイラちゃんって」
「お前、今夜は妙に絡むな」
「絡んでなんかないわよ。……そうよね、憧れのエイラ“ちゃん”に会えたんですものね。事務所にでっかいポスターを貼るくらいの。本人を目の前にして、舞い上がってしょうがないんじゃない?」
「やっぱりお前、飲み過ぎじゃないか?」
「いいの、いいの。『クレオパトラの涙』に乾杯!」
「しーっ!」
 小夜子は一気にスクリュードライバーを飲み干した。
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