第2話

文字数 4,136文字

 十月十三日。旅行三日目。

 目覚ましのアラームで目が覚めた。どうやら、いつの間にかベッドに座ったまま、眠り込んでしまっていたようだ。無理な姿勢だったのか、腰と左肩の関節に微痛を憶えた。
 気が付けば仄かなコーヒーの香りが部屋中を漂っている。
 時刻は午前九時ちょうど。
 小夜子はコーヒーの入ったマグカップを手渡してきた。彼女は既に着替えを済ませていて、今日の衣装は昨日までのフォーマルなドレスとはうって変わり、黒のトレーナーに紺色のジーパン。髪は後ろに束ねたポニーテールで、動きやすそうなスニーカーを履いている。ほとんどメイクをしておらず、急に女子校生に戻った印象だ。オシャレをしたらと言いながら、自分は全然そうじゃないじゃないか、と突っ込みを入れたかったが、きっと、今夜の大仕事に対する意気込みの表れだろうと思い直した。今回の事態を想定したわけでもない筈なのに、こんなカジュアルな格好も用意していたとは、何とも用意周到と言わざるを得ない。どうりでバカでかいスーツケースが二つもいる訳だ。
「まだ痛むか? やっぱり今から医務室に行って、ドクターに診てもらおうぜ」
 すると小夜子は頭を振った。
「心配しなくても、もうすっかり大丈夫よ。それにもし医者に診てもらう事になれば、昨夜の事を話さなければならないでしょう? その事で北鳴門さんに迷惑が掛かったらどうするの」
「転んで頭を打ったことにすればいいさ」
「私、嘘は苦手なの。誰かさんと違って」
「人を嘘つき呼ばわりするなよ。それに嘘は苦手といいながら、昨夜も煙草が吸えるとか嘘を言っていたじゃないか」
「あれは冗談と言ったはずよ」
「同じ事だろ」
「全然違うわ。冗談は方便、嘘は犯罪」
「それじゃあ、政治家はみんな極刑だな」
「そうよ、今ごろ知ったの?」
 開き直る小夜子を説得できるわけもなく、高野内は溜息を吐きながら、渋々承諾する。
 その後、ビュッフェで簡単な朝食を済ませると、その足で北鳴門の部屋を訪ねることにした。

 エレベーターを降りてスイートルームに続く広場に出ると、あの松矢野とかいう男がベンチに座っていた。
 彼は、顔をしかめながら奥の廊下を注意深く睨んでいた。だが、高野内たちに気づくと、一瞬強張った顔を見せるが、すぐに顔色を変えて陽気な声を張り上げた。
「おお、兄ちゃんたち。相変わらず仲がよろしいでんな」松矢野は今日も扇子を仰いでいる。その体格だとさぞかし暑かろう。
 今日はシラフみたいだったが、まだ午前中だから当たり前だ。もっともこのオヤジなら本当に朝から飲みかねない。
 小夜子の前に立つと、高野内は、威嚇するようにファイティングポーズを構えた。しかしその手は震えている。もちろん、彼の周りだけ気温が低い訳では無い。
 だが、今日の松矢野は意外にも腰が低い。
「姉ちゃん、昨日はすまんかったな、堪忍してくれや。それだけあんたが、べっぴんさんちゅうことや」
 どうやら、小夜子を誘うのは諦めてくれたみたいだ。ほっとして拳を下ろす高野内。
「失礼ですが、あなたは松矢野さんですか」
「どうして知っとるんや、あんたは警察か? FBIか? KGBか?」
 松矢野は分かり易くうろたえた。奥の廊下を見つめていた事といい、なにか後ろめたいことでもあるのだろうか。それにしてもKGBとはいつの時代だ。
「そうではありません。これを拾ったのです」
 財布から昨日見つけた名刺を取り出して、彼に渡す。昨夜、頑張って拭いてみたが、その名刺には靴跡が、まだうっすらと残っていた。
「ああ、あの時かいな。こりゃウッカリや」
 松矢野は扇子を畳んで自分の頭を叩く。
「あなた、税理士さんだったんですね」
「そや、必要な時はいつでも言ってや。昨日のお詫びに、なんぼでも勉強しまっせ」
「ええ、その時はお願いするかもしれません」
 小夜子はともかく、高野内に“その時”がやってくるとは到底思えないが。
「ところで、あんたは何者なんや」
「申し遅れました、わたくしはこういう者です」
 高野内は自分の名刺を差し出す。
「ええと『高野内探偵事務所 所長 高野内和也』。何やあんた、探偵やったんかいな。で、姉ちゃんは?」
「私は助手の峰ヶ丘です」小夜子はハッキリした声で名乗った。
「霧ヶ峰? エアコンみたいな名前やな。姉ちゃんオモロイで。掴みはオッケーや」
 憤慨した小夜子は、頬を膨らませながら、きっぱりと否定した。
「霧ヶ峰じゃなくて峰ヶ丘です。峰ヶ丘小夜子。エアコンじゃありません」
 険悪な雰囲気になりそうな気配を感じ、高野内は話を切り替えることにした。
「まあまあ、そのくらいで。ところで、松矢野さんはどうしてここに?」
 すると松矢野は扇子で横腹をポンと叩く。
「聞いてくれや、これからレストランでデートの約束なんや。まだ時間があるさかい、ここで暇をつぶしとったんや。エアコンの姉ちゃんも悪くないが、ワシの相手はもっと美人やぞ」
 顔のニヤつきが止まらない。冗談ではなく本当にデートなんだろう。美女とデートだなんて羨ましい。おそらく昨日みたいに、強引にナンパしたのだろうが、“ナンパじゃなくて難破しろ、航海じゃなくて後悔しろ、海だけに”と文字に起こさないと判らないダジャレを頭の中で放った。
「そうですか、それは良かったですね」
「相手は誰やと思う?」
「知りませんよ、あなたの相手なんて」
「どうしたもんかいな……やっぱ止めとこかな」
 焦らす松矢野にキレる小夜子。
「言いたいならはっきり言ったらどうなの? 優柔不断なヤツは半殺しの目にあわせるぞ……と、高野内が申しております」
「おいおい、俺はそんな事言ってないぞ」
 ふたりの掛け合いが面白かったらしく、松矢野は笑い声をあげた。
「兄ちゃんたちオモロイな。――よっしゃ、あんたらに免じて特別にデートの相手を教えたるわ」
「別に知りたくないけど。私、興味ないし」小夜子は小声で呆れる。
「ええか、誰にも言うんや無いぞ……デートの相手は、グラビアアイドルの大野城エイラや」
 絶句せずにはいられない。高野内の脳裏に昨夜の彼女の姿が蘇る。
 嘘だ、絶対に嘘だ。誰か嘘だと言ってくれ!
「ええっ! 大野城エイラ? 冗談でしょう?」小夜子は大げさに声を上げた。その響きは広場中に広がっていく。
「声が大きい! 誰かに聞かれたらどないするんや。あんた、アホちゃうか」
 だが、ここには三人の他に人影はなかった。
 高野内はエイラがこの船に乗っていることを知らないふりをする。「本当ですか? あのエイラちゃんが、どうしてあなたと? そもそも彼女がこんなところにいる訳がない」
「冗談やない。昨日たまたま知り合うたんや。彼女もこの船に乗っとるんやで」
「もし仮にエイラちゃん……大野城さんがこの船に乗っていたとして、どうして、あなたが彼女とデートすることになったのですか」
「どうせ強引にナンパしたんでしょ、昨日みたいに」小夜子は辛辣な言葉を独り言のようにつぶやいた。高野内も同意だったが、太っちょ税理士の答えは意外なものだった。
「そやない。信じられへんかもしれんが、彼女の方から声を掛けてきたんや」
 松矢野は勝ち誇るような顔で、扇子を持ちながら、その出っ張っているお腹を両手でさすった。高野内は顔を引きつらせながら、精一杯の虚勢を張った。
「それは良かったですね。その大野城エイラとかいうモデルの事は知りませんが、彼女とのデート存分に楽しんで来てください」
「あんた、さっき『エイラちゃん』言うとったやないか……まあええ、約束の時間に遅れるさかい、ここで失礼するわ。ほな、さいなら」
 松矢野は腕時計をちらりとかざすと、ドスドスと鈍い足音を立てながら、足早にエレベーターの方へと去っていった。
 まだ動揺が収まらない高野内は、ベンチに腰を下ろし、呼吸を整える。
「……まさか、ここで大野城エイラの名前がでてくるとは思わなかった」
「そうよね、びっくりしたわ」だが、心が籠っていないのは明白で、どこか冷めた口調だった。小夜子にしてみればどうでもいい問題なのだろう。
しかし、高野内としては聞き捨てられない。
「これからデートだと言っていたけど、絶対にでまかせだよな。――だとすると、どうしてエイラちゃんがこの船に乗っていることを知っていたのかな。昨日の彼女の様子だと、別にお忍びだという感じじゃなかったから、噂を聞いたり、実際に彼女の姿を見かけたのかもしれないけど」
「そんなところじゃない? あんなデブでブサイクで口が臭くて、スケベで下品な関西人なんか、誰も相手にしないわ」
「そこまで言う事無いだろう。お前、あいつの事、相当嫌ってるな」
「当たり前じゃない。昨日あんな真似した上に、私の事を霧ヶ峰だって……絶対にワザとだわ。確かに小学生の頃、男子にそんなあだ名をつけられて、からかわれていたけど」
「まあ元気出しなはれ、おいどんはおみゃあさんを応援しとるだべさ、サランヘヨ。シャルウィーダンス?」もはや日本語ですらない。もはや突っ込もうともしない小夜子を見て、話を逸らすことにした。「そういえば、松矢野はどうしてここにいたのかな?」
「変ね。時間つぶしにと言っていたけど、わざわざこんなところに来るかしら」
「確かに、このフラワーガーデンは立派だけど、下の階には、もっと豪勢なものがある。花を眺めるために来たとは思えない。それに、ここはスイートルーム専用フロアだ。彼の部屋はC等のはずだから、ここにいるのは不自然だし、今思えば、さっきここで見かけた時も奥の廊下を監視している様子だった」
「もし大野城エイラがスイートの客だったら?」
「それはあり得る話だけど、だったら直接部屋に迎えに行けばいいだけの話だ。この広場で待ち合わせするのはちょっと頷けないな」
「部屋の場所を知られたくなかったんじゃない?」
「それはありえない。ここからは部屋の扉がはっきりと見える。部屋を知られたくないのなら、ここを指定する訳がないだろう」

 その時。高野内の携帯が鳴った。
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