第1話
文字数 2,651文字
十月十二日。旅行二日目。
この日も朝から快晴で太陽がまぶしく輝いている。高野内たちのいる展望デッキのチェアーからはレジャープールが見える。そこにいる多数のカップルや親子連れは、歓声を上げながら船旅をエンジョイしている様子。
デッキは人もまばらで、少なくとも半径五メートル以内には誰もいない。
「それで昨日おっしゃっていたご相談とは?」
挨拶もそこそこに、高野内は昨日と同じ服装で北鳴門へと話しかけた。横には、結局、逃れることが出来なかった小夜子がちょこんと座って、能天気な笑顔(高野内にはそう見える)を浮かべている。彼女の今日の衣装は、白のブラウスにモスグリーンのスカート。さすがにアクセサリーは付けていないものの、探偵の助手としては少し派手な印象だ。
北鳴門は、周りに人がいないのを改めて確認し、中指でフチなし眼鏡を押し上げると、神妙な色を浮かべながら静かに口を開いた。
「実は今、あるビジネスのために、宝石を運んでいます」
「ほほう、それは景気のいいことでなによりです」何がなによりなのかも分からず、高野内は適当に褒めた。
「その事なのですが……ちょっとこれを見てください」
そう言って、北鳴門は警戒しながらポケットに手を入れると、折り畳まれた白い紙を取り出し、それを広げて高野内に渡した。
視線を落とすと、高野内は一瞬で背筋が凍った。
『十月十三日ノ深夜一時 クレオパトラノ涙ヲ頂戴スル 怪盗シャッフル』
そこには、サインペンではっきりとそう書いてある。筆跡を誤魔化すためか、その文字は定規を当てたように直線で書かれていた。
「こ、これは予告状……?」手を震わせながら紙を畳み、北鳴門へ戻す。
「私も最初はタチの悪いイタズラだと思いました。ですが今、私が『クレオパトラの涙』を持っていることは、今回のビジネス相手以外、誰も知りません。もちろん公表もしていないので、私の部下ですらその存在すらを知らない。――いわゆるトップシークレットです」
「そのクレオパトラの涙というのは?」
「大粒のダイヤモンドです。ここでは詳しく話せませんが、国内では最大級になります」
「ダイヤですか。……私は宝石の事はよく判りませんが、最大級というからには、さぞかしお高いんでしょうね」テレビショッピングか! 高野内は心の中で自らの発言に突っ込みを入れる。
「お話し次第では、後でご覧になれると思います」
小夜子はたまらずといった表情で口を出した。「その予告状は何処にあったの?」
北鳴門は顔だけを彼女に向けると、僅かに首を傾け、おずおずと話し出した。
「……昨日乗船してすぐの事でした。私たちは家族と部下たち二名を引き連れて部屋に入り、ウェルカムシャンパンを嗜んでいると、フルーツの盛ってあるバスケットの中に封筒が見えました。――最初はてっきりウェルカムメッセージだと思い、気にも留めなかったのですが、秘書が荷物を片付けているうちに、娘がそれを見つけ、ようやく手に取ったのです。開いてみると、そのメモが入っていました。――誰に相談してよいか判らず、途方に暮れていると、何も知らない妻に誘われて、仕方なくレストランに向かいました」北鳴門は一息ついて、鼻を膨らませた。「そこで高野内先生を見つけて、声を掛けたという次第です」
「なるほど、そういう事でしたか。……予告状によると、怪盗シャッフルは明日の深夜にやってくるという訳ですね」
北鳴門は顔を曇らせながらゆっくりと頷いた。
怪盗シャッフルに狙われるとは、なんという悲運だろう。
奴は近年、絵画や宝石ばかりを狙う大泥棒で、ここ三年の間に十二件もの犯行に及んでいた。奴の特徴は事前に予告状を出し、警察が厳重に監視している中で、まんまと犯行に及び、その成功率は百パーセントだった。未だに警察は、奴の逮捕どころか、手がかりすらも掴めずにいる。彼(彼女?)の活躍は、犯行の度に新聞やテレビで大々的に取り上げられ、平成のアルセーヌ・ルパンと呼ばれているほどであった。
「ここは警察に通報した方がいいのではないでしょうか」
高野内は正直に助言したつもりだったが、北鳴門の顔は曇ったままだ。彼は苦悶の表情を浮かべ、必死に訴えてきた。
「もちろんそれも考えましたが、今から通報しても、次に寄港するのは三日後の昼過ぎです。犯行予告は明日の深夜一時。とても間に合いません……それに取引相手である先方の都合で、たとえ警察であっても、他人にダイヤの情報を漏らすわけにはいかないのです。――先ほども少し言いましたが、予告状の事をダイヤの件も含めて、一緒に来た家族や部下たちにすら、話してはいない」そこで北鳴門は念を押すように言った。「先生は特別なんです」
彼の言う取引相手とは、どんな人物なのだろうか。頭の中で、大勢の手下を引き連れる暴力団の組長が、日本刀を振り回す姿を想像した。
「でしたら、せめて船長にだけでも事情を説明して、保管庫に預けてみてはいかがでしょう」
シャッフルが相手では荷が重すぎると高野内は暗に白旗を上げるが、北鳴門は首を縦に振ろうとはしない。
「そんな事が出来るのなら苦労はしませんよ。もしクルーの中にシャッフルの仲間がいたらどうするんですか! それこそ奴の思う壺です。……それに、この事はやはり誰にも知られるわけにはいきません。だから高野内先生、あなたに相談しているんですよ」
悲痛の叫びに、力を貸してあげたいという思いが込み上げていた。
「それで、私に何をしろと」
「明日、あの宝石を守って欲しいのです」
高野内は両腕を組むと、悩ましげな顔を小夜子に向けた。すると彼女は薄い笑みを浮かべるとコクリと頷く。覚悟を決めた高野内は、依頼を受けることに決めた。
「……分かりました。私たちに出来る事でしたら、全力を尽くしましょう」
その言葉に北鳴門は感激したのか、高野内の両手を力強く握りしめると、潤んだ瞳でありがとうございますと頭を下げた。
「ただし、一つ条件があります」
高野内は北鳴門の眼鏡の奥をじっと見据える。
「何ですか? 報酬でしたら先生の言い値をお支払いします」
「もちろんそれもあるのですが……」
「遠慮せずにはっきりとおっしゃって下さい」
すると高野内は一呼吸し、人差し指を北鳴門の唇に軽く押し当てると、たっぷりと間をあけてからこう言った。
「今後、先生と呼ばないでください。……慣れないものだから気恥ずかしくてね」
この日も朝から快晴で太陽がまぶしく輝いている。高野内たちのいる展望デッキのチェアーからはレジャープールが見える。そこにいる多数のカップルや親子連れは、歓声を上げながら船旅をエンジョイしている様子。
デッキは人もまばらで、少なくとも半径五メートル以内には誰もいない。
「それで昨日おっしゃっていたご相談とは?」
挨拶もそこそこに、高野内は昨日と同じ服装で北鳴門へと話しかけた。横には、結局、逃れることが出来なかった小夜子がちょこんと座って、能天気な笑顔(高野内にはそう見える)を浮かべている。彼女の今日の衣装は、白のブラウスにモスグリーンのスカート。さすがにアクセサリーは付けていないものの、探偵の助手としては少し派手な印象だ。
北鳴門は、周りに人がいないのを改めて確認し、中指でフチなし眼鏡を押し上げると、神妙な色を浮かべながら静かに口を開いた。
「実は今、あるビジネスのために、宝石を運んでいます」
「ほほう、それは景気のいいことでなによりです」何がなによりなのかも分からず、高野内は適当に褒めた。
「その事なのですが……ちょっとこれを見てください」
そう言って、北鳴門は警戒しながらポケットに手を入れると、折り畳まれた白い紙を取り出し、それを広げて高野内に渡した。
視線を落とすと、高野内は一瞬で背筋が凍った。
『十月十三日ノ深夜一時 クレオパトラノ涙ヲ頂戴スル 怪盗シャッフル』
そこには、サインペンではっきりとそう書いてある。筆跡を誤魔化すためか、その文字は定規を当てたように直線で書かれていた。
「こ、これは予告状……?」手を震わせながら紙を畳み、北鳴門へ戻す。
「私も最初はタチの悪いイタズラだと思いました。ですが今、私が『クレオパトラの涙』を持っていることは、今回のビジネス相手以外、誰も知りません。もちろん公表もしていないので、私の部下ですらその存在すらを知らない。――いわゆるトップシークレットです」
「そのクレオパトラの涙というのは?」
「大粒のダイヤモンドです。ここでは詳しく話せませんが、国内では最大級になります」
「ダイヤですか。……私は宝石の事はよく判りませんが、最大級というからには、さぞかしお高いんでしょうね」テレビショッピングか! 高野内は心の中で自らの発言に突っ込みを入れる。
「お話し次第では、後でご覧になれると思います」
小夜子はたまらずといった表情で口を出した。「その予告状は何処にあったの?」
北鳴門は顔だけを彼女に向けると、僅かに首を傾け、おずおずと話し出した。
「……昨日乗船してすぐの事でした。私たちは家族と部下たち二名を引き連れて部屋に入り、ウェルカムシャンパンを嗜んでいると、フルーツの盛ってあるバスケットの中に封筒が見えました。――最初はてっきりウェルカムメッセージだと思い、気にも留めなかったのですが、秘書が荷物を片付けているうちに、娘がそれを見つけ、ようやく手に取ったのです。開いてみると、そのメモが入っていました。――誰に相談してよいか判らず、途方に暮れていると、何も知らない妻に誘われて、仕方なくレストランに向かいました」北鳴門は一息ついて、鼻を膨らませた。「そこで高野内先生を見つけて、声を掛けたという次第です」
「なるほど、そういう事でしたか。……予告状によると、怪盗シャッフルは明日の深夜にやってくるという訳ですね」
北鳴門は顔を曇らせながらゆっくりと頷いた。
怪盗シャッフルに狙われるとは、なんという悲運だろう。
奴は近年、絵画や宝石ばかりを狙う大泥棒で、ここ三年の間に十二件もの犯行に及んでいた。奴の特徴は事前に予告状を出し、警察が厳重に監視している中で、まんまと犯行に及び、その成功率は百パーセントだった。未だに警察は、奴の逮捕どころか、手がかりすらも掴めずにいる。彼(彼女?)の活躍は、犯行の度に新聞やテレビで大々的に取り上げられ、平成のアルセーヌ・ルパンと呼ばれているほどであった。
「ここは警察に通報した方がいいのではないでしょうか」
高野内は正直に助言したつもりだったが、北鳴門の顔は曇ったままだ。彼は苦悶の表情を浮かべ、必死に訴えてきた。
「もちろんそれも考えましたが、今から通報しても、次に寄港するのは三日後の昼過ぎです。犯行予告は明日の深夜一時。とても間に合いません……それに取引相手である先方の都合で、たとえ警察であっても、他人にダイヤの情報を漏らすわけにはいかないのです。――先ほども少し言いましたが、予告状の事をダイヤの件も含めて、一緒に来た家族や部下たちにすら、話してはいない」そこで北鳴門は念を押すように言った。「先生は特別なんです」
彼の言う取引相手とは、どんな人物なのだろうか。頭の中で、大勢の手下を引き連れる暴力団の組長が、日本刀を振り回す姿を想像した。
「でしたら、せめて船長にだけでも事情を説明して、保管庫に預けてみてはいかがでしょう」
シャッフルが相手では荷が重すぎると高野内は暗に白旗を上げるが、北鳴門は首を縦に振ろうとはしない。
「そんな事が出来るのなら苦労はしませんよ。もしクルーの中にシャッフルの仲間がいたらどうするんですか! それこそ奴の思う壺です。……それに、この事はやはり誰にも知られるわけにはいきません。だから高野内先生、あなたに相談しているんですよ」
悲痛の叫びに、力を貸してあげたいという思いが込み上げていた。
「それで、私に何をしろと」
「明日、あの宝石を守って欲しいのです」
高野内は両腕を組むと、悩ましげな顔を小夜子に向けた。すると彼女は薄い笑みを浮かべるとコクリと頷く。覚悟を決めた高野内は、依頼を受けることに決めた。
「……分かりました。私たちに出来る事でしたら、全力を尽くしましょう」
その言葉に北鳴門は感激したのか、高野内の両手を力強く握りしめると、潤んだ瞳でありがとうございますと頭を下げた。
「ただし、一つ条件があります」
高野内は北鳴門の眼鏡の奥をじっと見据える。
「何ですか? 報酬でしたら先生の言い値をお支払いします」
「もちろんそれもあるのですが……」
「遠慮せずにはっきりとおっしゃって下さい」
すると高野内は一呼吸し、人差し指を北鳴門の唇に軽く押し当てると、たっぷりと間をあけてからこう言った。
「今後、先生と呼ばないでください。……慣れないものだから気恥ずかしくてね」