第2話

文字数 4,791文字

 雷が鳴り響いた。
一瞬の静寂の後に、窓を打つ雨粒が激しく太鼓を打ち鳴らす。嵐の中を漂う小舟は、その揺れを増し、支えが無くては立っていられない程だった。高野内は、左手で壁の手すりに摑まると、テーブルの上の湯飲みの周りに、薄緑の水たまりが広がっていくのが見えた。
イラつきながら、飯田橋は高野内に詰め寄った。
「何が何だか私にはさっぱりわからん! 判り易く説明してくれないか。誘拐事件が無かったというのは一体どういうことなんだね?」
「では私の推理を聞かせましょう。先ほど、誘拐事件こそが北鳴門の真の目的だと話しましたが、ではなぜ、最初の予告状にそのことが書かれていなかったのでしょうか? それは最初に誘拐をほのめかすことを書いてしまったら、予告状が偽物だとバレてしまうからです」
「どうしてそうなるの?」小夜子は疑問の声を入れた。
「怪盗シャッフルはこれまで殺人など故意に人を傷付けるような真似はしてきていません。もちろん、誘拐も例外では無い。それが、義賊として平成のアルセーヌ・ルパンと呼ばれる所以です。そのことは、テレビなどでも度々取り上げられていますから、皆さんも当然ご存知だと思いますが」
「確かにそうだ、私も雑誌で見た覚えがある。航海中は、それくらいしか楽しみが無いからな」
「もし、最初の予告状に、誘拐を匂わせる記述があれば、私も怪しんだでしょう。だから、敢えて彼は予告状を二回に分けたのです」
 そこで小夜子はパンと手を鳴らした。「なるほど、最初に『クレオパトラの涙』が狙われていることにして、実際にそのダイヤを見せた。そして、私たちを信用させたところで、二枚目の予告状を見せたのね。――さすがは大社長、まんまと乗せられたわ」
「ご丁寧にも“お前の大事なものをいただく”と、あえて曖昧な表現を使ってね。俺がシャッフルの狙いは美咲だと思いつくのを期待したに違いない。彼の手腕にすっかり踊らされちまったよ」
飯田橋は探偵の名推理に拍手を捧げた。「天下の名探偵を手玉に取るとはな。まるでシャーロック・ホームズでいうところのモリアティ教授ですな」
「じゃあ私はワトソン医師ね。ちょうど医者を目指していたところだし」
「お前は理学部専攻じゃなかったのか」
「あら、そんなこと言ったかしら」
「相変わらず調子のいいやつだ」
 二人の言い争いに辟易したのか、飯田橋が口を挟んだ。
「痴話喧嘩は後にしてくれ。で、誘拐の話はどうなったんだ?」
「失礼しました、話を戻します。実は二通目の予告状を見た時に違和感を憶えました。その時には、正体が掴めなかったのですが、後になって気づきました……匂いです」
「匂い?」飯田橋と小夜子は同時に言った。
「ええ、微かですがインクの匂いがしたんです。筆跡は、新聞や雑誌などに掲載されていましたから、彼はそれを真似たのでしょうが、もし、怪盗シャッフルが書いた物であれば、時間が経っていて、そんな匂いはしないはずです。おそらく、北鳴門氏が直前に書いたので、サインペンの匂いが残っていたのでしょう。……そのからくりに気づいたときに、この事件の全容がはっきりと見えたのです。バラバラになったジグソーパズルが完成したように」
「なるほど、さすがはシャーロック・ホームズだな」
「ホームズくん。自慢の灰色の脳細胞で解き明かした誘拐事件の謎を説明してくれたまえ」
 小夜子のおどけた口調に、高野内は苦笑しながら眉をひそめた。
「灰色の脳細胞はエルキュール・ポアロだけどな……では、ハッキリ言いましょう! 最初からこの船に、北鳴門氏の奥さんの妙子夫人と娘の美咲さんは、乗って“いなかった”のです!!」
 事務室は静寂に包まれた。あまりの展開に、皆、言葉を忘れたかのように黙り込んでいるようだった。
 しばらく経ってから飯田橋は妙子夫人を指差しながら、「それじゃあ、この人は一体誰なんです?」
「それは、あなたの口から話していただけますね」
 高野内はそう促すと、北鳴門妙子(と思われる女)に視線が集まる。彼女は観念したのか、溜息をつくと、ゆっくりと真実を語り出した。
「……私の本名は三佐樹鈴香(みさき、すずか)と言います。数字の三に佐渡島の佐と樹木の樹で三佐樹。娘の名前は琴美(ことみ)です。……初めて高野内さんとお会いした時に、娘の琴美は、峰ヶ丘さんから名前を聞かれて、“みさき”と苗字だけを答えたのです。初対面の人にはフルネームを言わないように、普段からしつけていましたから……だって、もし、相手が変質者だったら危険ですからね、いろいろ物騒な事件のニュースも聞きますし。――ごめんなさい、高野内さんがそうだとは決して思っていませんから、気を悪くしないでください」
 すると小夜子は平然と言った。
「大丈夫です。この人は変質者に思われる事なんて慣れていますから」
「おい、いい加減なこと言うなよ」
「だからあの時、『みさきちゃん』って呼んだら、変な顔をしたのね。普通は苗字を“ちゃんづけ”で呼ばないから」
「峰ヶ丘さんにも迷惑かけたわね。ごめんなさい」鈴香は小夜子に一礼をした。
「ハンカチにあったイニシャルも、Kotomi・MisakiでK・Mだったのね。北鳴門美咲ではなく」
 小夜子はポシェットから琴美のハンカチを出すと、改めてイニシャルを確認した。
「妙子さ……いえ、鈴香さん。あなたと二度目に会った時に、デービッドさんと一緒でしたよね。あれは何故だったんですか? ――まあ、なんとなくは想像できますけど」
「私が偶然声をかけたんです。てっきり船の方だと思いましたので。どこのレストランがお勧めですかって」
 高野内は、デービッドに視線を向けたが、彼は腕を組んだまま、山のようにピクリとも動かない。まさか風林火山を気取っている訳ではあるまい。
「あの風体ですからね。警備員か何かと間違っても仕方ないと思います」
 すると小夜子が疑問を投げかけた。
「でも、たしかあの時、高野内が鈴香さんに尋ねましたよね、『北鳴門氏の方ですよね』って。どうして否定しなかったのですか?」
「あの時は本当にびっくりしました。どうして私の家の事を知っているのかと」
「家?」小夜子は思わず裏声を上げた。
「ええ、私の住まいは宮崎県の北奈留戸市(きたなるとし)なんです。その後で主人と知り合いと聞いて、納得しましたけれど」
「すっごい偶然ね、こんな事ってあるのかしら? まるで素人の三文小説みたい」
……“素人の三文小説で悪かったな”……どこからか“神”の声がした。
「その会話をデービッドが聞いていて、我々が勘違いしているのが判ると、彼は咄嗟の判断で、鈴香さんを妙子夫人と思わせるように振舞った。――そうでしょう? デービッドさん」してやったりと声を掛けたが、それでも山は動かない。仕方がなく彼を無視することにして、「その後に、鈴香さんはデービッドに連れられて、北鳴門氏の部屋に行きましたね。それから彼に、私たちを騙すように頼まれたのではありませんか?」
「ええそうです。北鳴門さんは言いました。『知り合いの高野内くんに、私の妻と娘を紹介したいのだが、あいにく、直前になって娘が熱を出して、二人ともキャンセルしたんだ。――でも、自慢の娘たちを紹介すると言った手前、このままでは恥をかくことになる。ちょうど彼も、君たちの事を私の妻と娘と思い込んでいるようだし、少しの間だけ、私の家族のフリをしてくれないか』と。すこし悩みましたが、報酬も弾んでくれたこともあり、頼みを引き受ける事にしました。……それから、宝石の事や怪盗シャッフルの話を聞いて、琴美には『今からママのお友達のところに行くから、一緒にいらっしゃい。チョコレートをくれたお姉さんたちが遊びに来るみたいだから、ちゃんとお礼を言うのよ。それから、お姉さんたちは、琴美の事を“三佐樹ちゃん”って呼ぶけど、ちゃんと返事してあげてね』と言って連れてきました」
「だから、北鳴門の部屋で娘さんの話になった時に、たどたどしかったのですね」
「人を騙す事に慣れないものですから緊張しちゃって」
「判ります。正直言って、あの時のあなたは、かなり挙動不審でしたよ」
「北鳴門さんが挨拶の後に、すぐに寝室に引っ込んだのも、琴美ちゃんと顔を合わせないようにするためだったのね」
「あなたたちが帰った後、北鳴門さんは、もし、私たちが、外で高野内さんたちと会っても、妻のフリを続けるようにと念を押され、報酬を貰って部屋へと戻りました。そして、昨夜また連絡があり、部屋に来るように言われました。十時半ごろです。ですから、私は、彼の指示通り、琴美を夫に預けて、迎えに来たデービッドさんと一緒に、ワインを買ってからまたあの部屋を訪れました。フラワーガーデンに高野内さんたちがいるはずだから、挨拶するようにとも言われました。それから奥の寝室でワインを飲みながら、じっとしていましたが、午前一時少し前に、エントランス横のトイレに入るように言われました。……それから、間もなく照明が消えると、ドタバタ物音が聞こえ、その後、高野内さんたちの声が耳に入りました。私は言われた通り、こっそりトイレから抜け出して、高野内さんが寝室に入ったのを確認すると、静かに部屋を出て、非常階段から自室へと戻りました。――まさか、あの後に北鳴門さんが、あんなことになるとは思わなかったので、翌朝、その事実を知った時には震え上がりました。恐ろしくて、この事は主人には一切話していません。正直、こんな依頼なんて引き受けなければよかったわ。――それからしばらくは、部屋に閉じ籠っていたのですが、琴美がどうしても海が見たいと駄々をこねるものですから、変装してこっそりと甲板に向かったのです。」
「その時、高野内さんと偶然会ったんですね」
 飯田橋はなるほどと頷いた。
「ええ、びっくりして、思わず声を上げてしまいました」
「でも、非常階段は鍵のかかった防火扉のせいで入れないんじゃなかった? なぜ開いていたのかしら」小夜子は納得のいかない様子。
「そのための発煙筒だったのさ。あそこの扉は非常時になると、自動的にロックが解除される仕組みになっている。つまり、警報装置と連動して扉が開いたんだ」
 小夜子は鈴香の顔を見つめながら、体を前のめりにする。
「全部白状したのですか? 高野内さんとばったり会った時に」
「いいえ、その時の私は、どうしていいのか判らずに、茫然として立ち尽くしていました。ですが、耳元で、高野内さんから『安心してください。私には全部判っていますから』と言われ、指示通り携帯番号を教えて、琴美を部屋に連れて帰ると、主人に預けてこの部屋の近くで待機していました。私はその間、ひと言も話していません」
「自業自得とはいえ、お気の毒でしたな」飯田橋は労いの言葉を掛けた。
「誘拐事件の顛末は判ったけど、結局、昨夜は一体何があったの? 誰が北鳴門さんを殺したの?」
 小夜子の発言に高野内は険しい顔をしながら寺山田とデービットを見据えた。
「それは、そちらのお二人がご存じの筈だ。いい加減に話してもらえますか」
「私は何も知らない。弁護士を呼んでくれ」
 寺山田は冷静さを失い、すっかり取り乱している。山はまだ動かない。
「弁護士を呼ぶんですか? この海の上に? それはどうぞご自由に。でも、このままではあなたたちが三人も殺したことになりますよ。それでもいいのですか?」
「それはどういう意味なの?」
 小夜子の問いかけに、高野内は即答した。

「考えてもみろ。北鳴門氏は、なぜ、こんな手の込んだことを計画したのかを。おそらく彼は、本物の妻の妙子と娘の美咲を殺害していたんだよ」
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