第3話
文字数 1,935文字
「あれ絶対ワザとだよな」
部屋への道すがら、高野内は左足を引きずりつつ、小夜子に文句を垂れる。
「何が?」
「スイートルームの話だよ。『良かったら手配させようか?』なんて。イヤミったらしい奴だ」
「そうかしら? 案外、本気だったのかもよ」
「どうだか。しかも『ウェルカムシャンパンを用意してお待ちしているよ』だって。絶対俺たちの会話が聞こえていたんだぜ」
「ひがまない、ひがまない」
「それに、さっきのはなんだよ。俺の足を思いっきり踏みつけやがって」
「だってあなたが適当な事を言うんですもの。なに? コンビニの万引き未遂事件って。恥ずかしくって顔から火が出そうだったわ」
「あのな、あれは方便であり、信頼を勝ち取るための重要な戦略なんだよ」
「どうだか。私には、ただ見栄を張って自慢しているようにしか見えませんでしたけどね」
小夜子は顔をしかめながら舌を出すと、高野内を置いて足早に部屋へと歩いていった。高野内はやれやれといった感じで甲板に出ると、昨夜訪れた喫煙所に寄り道した。
そこで煙草を一本だけ灰にして、しばらく海を眺めてからその場を離れた。
D等に向かうエレベーターを降りたところで、小夜子の声が耳に入ってきた。何だか切迫した様子だ。
「止めて下さい! 大声出しますよ」
「ええやないか。減るもんやないし」
昨日、初めて部屋を訪れる際に声を掛けてきた、巨漢の関西人だった。
男は怯える小夜子に詰め寄り、にやけ顔で唾を飛ばしている。顔全体が赤くなっているところを見ると、かなり酔っているのだろうと推測された。
「どうしたんですか!」高野内は語気を強めて男を威嚇する。
「どうもこうもあらへんがな。この姉ちゃん、ちょっとお茶に誘ったくらいで、この剣幕や」
「だから、さっきから何度もお断りしているでしょう? いい加減に諦めてください」
さすがの小夜子も涙目になっている。
「彼女は嫌がっているじゃないか。あんまりしつこいと警備員を呼ぶぞ!」
すると男は急に大人しくなり、扇子を仰ぎだす。
「冗談がな。ホンマ、東京のもんはシャレが通じんさかい、つまらんのう。……ほいであんたはこの女のアレか」男は小指を立てる。
「俺は彼女のボディーガードだ。もし指一本でも触れたら、たたじゃおかないぞ」
高野内は見様見真似の空手の構えを取る。
「おお怖。今日んところは、あんたに免じて退散しますさかい、勘弁してくれや」
男は千鳥足でフラフラと体を揺らしながら廊下の角を曲がっていった。
「大丈夫だったか?」
小夜子の両肩をしっかりとつかむと、心配の声を上げた。
「ええ大丈夫よ。さっき部屋へ帰ろうと廊下を歩いていたら、あの男がいたの。昨日の事があったから『お部屋は見つかりましたか』って声を掛けたら、酒臭い声でいきなり『姉ちゃん、一緒にお茶飲まへんか?』だって。何度断ってもあの調子よ、あなたが来てくれなかったら、本当に大声を出していたかも」
「それは大変だったな。俺がいて良かっただろう?」
「あなたも煙草臭いわね。大体、あなたが煙草を吸いに行っていたから、こんな目にあったんじゃないの!」
「おいおい、俺のせいにするなよ。煙草ぐらい、いいじゃないか」
「ボディーガードなんだから、もっと自覚を持ちなさいよっ!」だが、その口ぶりとは裏腹に、小夜子は高野内の腕を取ると伏し目がちな瞳で感謝を述べた。「――でもありがとう。本当に助かったわ」
「少しは俺の事、見直したかい?」
「少しね」
「不安にさせて悪かった。これからは目を離さないようにするよ。なにせ、家賃四か月分が掛かっているからな」
呆れ顔の小夜子は「……期待しているわ」と、半笑いで言った。
「わてに任せておくんなまし、なんぼでも守ってやるきにばってん」
「何だかもうメチャクチャよ」
その時、高野内は背後に気配を感じた。反射的に振り返ってみたが、廊下には誰もいない。だが、突き当りの角で、何かの影が慌てて引っ込んだような気がした。
「どうしたの?」
「いや、何でもない。気のせいだ」
そう言いながらも高野内は警戒心を強めた。
「あっ」
小夜子は高野内の足元を指さした。見ると左の革靴の下に、四角い小さな白い紙が半分顔を出している。足をどけて拾い上げると、それは名刺だった。高野内の靴跡がしっかりと付着している。
「『松矢野(まつやの)税理士事務所 所長 松矢野平祐(へいすけ)』だってさ。今の奴の物かな?」
「きっとそうよ。だって、さっきまで何も落ちてなかったですもの」
「あの男、税理士だったのか。人は見かけによらないな」
ポケットに名刺を入れると、二人は寄り添いながら部屋へと戻った……。
部屋への道すがら、高野内は左足を引きずりつつ、小夜子に文句を垂れる。
「何が?」
「スイートルームの話だよ。『良かったら手配させようか?』なんて。イヤミったらしい奴だ」
「そうかしら? 案外、本気だったのかもよ」
「どうだか。しかも『ウェルカムシャンパンを用意してお待ちしているよ』だって。絶対俺たちの会話が聞こえていたんだぜ」
「ひがまない、ひがまない」
「それに、さっきのはなんだよ。俺の足を思いっきり踏みつけやがって」
「だってあなたが適当な事を言うんですもの。なに? コンビニの万引き未遂事件って。恥ずかしくって顔から火が出そうだったわ」
「あのな、あれは方便であり、信頼を勝ち取るための重要な戦略なんだよ」
「どうだか。私には、ただ見栄を張って自慢しているようにしか見えませんでしたけどね」
小夜子は顔をしかめながら舌を出すと、高野内を置いて足早に部屋へと歩いていった。高野内はやれやれといった感じで甲板に出ると、昨夜訪れた喫煙所に寄り道した。
そこで煙草を一本だけ灰にして、しばらく海を眺めてからその場を離れた。
D等に向かうエレベーターを降りたところで、小夜子の声が耳に入ってきた。何だか切迫した様子だ。
「止めて下さい! 大声出しますよ」
「ええやないか。減るもんやないし」
昨日、初めて部屋を訪れる際に声を掛けてきた、巨漢の関西人だった。
男は怯える小夜子に詰め寄り、にやけ顔で唾を飛ばしている。顔全体が赤くなっているところを見ると、かなり酔っているのだろうと推測された。
「どうしたんですか!」高野内は語気を強めて男を威嚇する。
「どうもこうもあらへんがな。この姉ちゃん、ちょっとお茶に誘ったくらいで、この剣幕や」
「だから、さっきから何度もお断りしているでしょう? いい加減に諦めてください」
さすがの小夜子も涙目になっている。
「彼女は嫌がっているじゃないか。あんまりしつこいと警備員を呼ぶぞ!」
すると男は急に大人しくなり、扇子を仰ぎだす。
「冗談がな。ホンマ、東京のもんはシャレが通じんさかい、つまらんのう。……ほいであんたはこの女のアレか」男は小指を立てる。
「俺は彼女のボディーガードだ。もし指一本でも触れたら、たたじゃおかないぞ」
高野内は見様見真似の空手の構えを取る。
「おお怖。今日んところは、あんたに免じて退散しますさかい、勘弁してくれや」
男は千鳥足でフラフラと体を揺らしながら廊下の角を曲がっていった。
「大丈夫だったか?」
小夜子の両肩をしっかりとつかむと、心配の声を上げた。
「ええ大丈夫よ。さっき部屋へ帰ろうと廊下を歩いていたら、あの男がいたの。昨日の事があったから『お部屋は見つかりましたか』って声を掛けたら、酒臭い声でいきなり『姉ちゃん、一緒にお茶飲まへんか?』だって。何度断ってもあの調子よ、あなたが来てくれなかったら、本当に大声を出していたかも」
「それは大変だったな。俺がいて良かっただろう?」
「あなたも煙草臭いわね。大体、あなたが煙草を吸いに行っていたから、こんな目にあったんじゃないの!」
「おいおい、俺のせいにするなよ。煙草ぐらい、いいじゃないか」
「ボディーガードなんだから、もっと自覚を持ちなさいよっ!」だが、その口ぶりとは裏腹に、小夜子は高野内の腕を取ると伏し目がちな瞳で感謝を述べた。「――でもありがとう。本当に助かったわ」
「少しは俺の事、見直したかい?」
「少しね」
「不安にさせて悪かった。これからは目を離さないようにするよ。なにせ、家賃四か月分が掛かっているからな」
呆れ顔の小夜子は「……期待しているわ」と、半笑いで言った。
「わてに任せておくんなまし、なんぼでも守ってやるきにばってん」
「何だかもうメチャクチャよ」
その時、高野内は背後に気配を感じた。反射的に振り返ってみたが、廊下には誰もいない。だが、突き当りの角で、何かの影が慌てて引っ込んだような気がした。
「どうしたの?」
「いや、何でもない。気のせいだ」
そう言いながらも高野内は警戒心を強めた。
「あっ」
小夜子は高野内の足元を指さした。見ると左の革靴の下に、四角い小さな白い紙が半分顔を出している。足をどけて拾い上げると、それは名刺だった。高野内の靴跡がしっかりと付着している。
「『松矢野(まつやの)税理士事務所 所長 松矢野平祐(へいすけ)』だってさ。今の奴の物かな?」
「きっとそうよ。だって、さっきまで何も落ちてなかったですもの」
「あの男、税理士だったのか。人は見かけによらないな」
ポケットに名刺を入れると、二人は寄り添いながら部屋へと戻った……。