第1話

文字数 2,282文字

 時刻は十一時四十八分。突如エレベーターホールからチャイムが聞こえた。それからコツコツと靴を鳴らす音が聞こえ、次第に大きくなる。
 スイートの客か? 巡回の警備員か? それとも……。だが、予告時間の午前一時には、まだ一時間以上ある。
 それでも油断大敵とばかりに固唾を飲みながら構えていると、そこに現れたのは大きな紙袋を抱えた大野城エイラだった。そういえば彼女はスイートに泊っていると言っていた。
 エイラはふたりを見つけると、一瞬、驚いた顔をしたが、すぐに女神の笑顔になった。こんな時間に人がいるとは思わなかったのだろう。
「こんばんはエイラさん。お買い物ですか?」
 反射的に小夜子から手を放し、ベンチから立ち上がって彼女を迎える。小夜子はやれやれといった仕草でそれに続く。
 飯田橋の警告が頭に蘇った。確か“エイラに近づくな”と言われたが、今回“近づいた”のは彼女の方からだ。高野内のせいじゃない。もちろん、それはただの屁理屈に過ぎないのは承知していた。
「ええ、色々見ていたら目移りしちゃって、つい買い過ぎちゃったわ」
「こんな時間までショッピングですか? お店はもう閉まっていますよね。消灯時間はとっくに過ぎていますけど」小夜子の口調はどこか刺々しい。
「いいえ。ショッピングの後、ナイトクラブで軽く一人で飲んでいたら、松矢野さんに捕まってしまったの。――彼ったら、ウォッカ片手に私を散々口説いた挙げ句、すっかり泥酔しちゃって……さっきやっと逃げ出してきたのよ」
「それは災難でしたね」高野内はエイラの抱えた荷物を指しながら「……ちなみに何を買ったんです?」
「旅の記念にと思ってね。帆船型の置物でしょう、マリンルックのセーラー服に弥生丸のロゴが入ったTシャツ、お土産用としてマカダミアンナッツとシャネルの香水も買ったわ。――おかしいでしょう? 海外旅行じゃあるまいしね」
「ところでそれは何です?」興味津々で、エイラの抱える紙袋から飛び出ている、プラスチックの棒を指さした。
「ああこれ? コロコロよ。ほら、カーペットなんかを掃除する道具。さっき雑貨屋で偶然見つけちゃったの。ちょうどいいサイズだから自宅用に買っちゃった。部屋でブリティッシュショートヘアを二匹も飼っているから掃除が大変なのよ」
「そのブリティッシュなんとかって犬ですか? すみません、動物には詳しくないものでして」高野内は改まって尋ねた。
「猫よ。二匹ともとっても可愛いの。私の一番の友達と言っても過言じゃないわ」
「ちなみに名前は何て言うんです?」
「二匹ともメスで、一匹はマーガレットよ。ほら、アイドルマジシャンにマーガレット天海(てんかい)っているでしょ? 彼女から取ったの。で、もう一匹はエメラ。瞳が綺麗なエメラルド色をしているから」
「素敵な名前ですね。良かったら今度、写真でも見せてください」
「是非お見せするわね。――そういえば、高野内さんたちはどうしてここに?」
「私たちはここで警備をしていたんです」高野内は反射的に答えた。
「あら、なにかあったの?」
 小夜子は突き飛ばす勢いで高野内の腕を組む。
「嘘です嘘。私たち、ここでデートしていたんです。――ねえ和也さん」
 するとエイラの視線に入らないように『話を合わせて』と、小夜子は軽くウインクを返した。
 真意をくみ取り、調子を合わす。「そ、そうなんです。こいつがここの花が見たいとうるさくて。わがままな彼女を持つと、ホント苦労しますよ」
「それはデートの邪魔をして悪かったわね。ごめんなさい」
「いえ、今夜はもう遅いから、部屋でゆっくりと休んでください」
「そうする事にするわね。高野内さんたちは?」
「もう少しここにいることにします」小夜子を指差しながら「こいつがいい加減、飽きるまで」
「そうですか、ここは寒いから、あまり遅くならないようにね……では失礼します。高野内さん、峰ヶ丘さん、ふたりとも仲良くね」
「おやすみなさい」
 エイラは手を振りなら、北鳴門の隣奥の部屋へと入っていった。
 ふたりは急に疲労感に襲われ、ベンチに沈み込むと、どっと溜息を吐く。
「ふう、危なかったわね。……でも、どうして警備の事、言っちゃうかな」
「ごめん。つい口から出ちゃって。俺って嘘が付けないタチだから」
「ふうーん。それにしては、あなたが本当の事を言っているところ、見た事ないんですけど」
「それよりお前も、もっと上品に振舞えよ。エイラちゃんみたいに」
「私のどこが下品だっていうのよ?」
「大人の色香が違うんだよ」
「はいはい、お子様で悪うござんしたね」
「はい、は一回じゃなかったのかい?」
「私はいいの。あんな巨乳だけが取り柄の女に鼻の下なんか伸ばしちゃって。どうせ、彼女の足ばかり見ていたんでしょう? あなたこそ下品じゃない」
「そういうお前こそ、貧乳だからエイラちゃんのことが羨ましいんだろ。それに昼間は彼女の事『案外いい人そうね』とか言っていたくせに。もしかして妬いているのか?」
「妬いてないわよ。私は客観的事実を述べているに過ぎません」
「またそれか」
 ふたりの体は幾分温まっていた。それがふたりの他愛も無い罵り合いの結果だとしたら、エイラに感謝せねばなるまい。

 時計の針がいよいよ一時へと迫る。異常はまだ見られない。部屋の中では北鳴門たちが固唾を呑みながら、ただ、時が過ぎ去るのをじっと待ち構えている事だろう。
 美咲は大丈夫だろうか。
 きっとベッドの中で震えながら、母親の妙子と抱き合っているに違いない。そう思うと、報酬に関係なく、何とか無事であってほしいと願った。
 最悪ダイヤが盗まれたとしても……。
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