第2話
文字数 3,075文字
それは、ふたりがレストランを出た直後の事だった。
横から幼い女の子が走って来たかと思うと、高野内とぶつかった。バランスを崩し、その場で尻もちをつくと、顔を歪めながら両手を払う。
ぶつかってきた女の子には見覚えがあった。出航前に波止場で風船を取ってあげた“みさき”という子だ。たしか北鳴門の娘と同じ名前なので、もしかしたら彼の子供なのではないかと感じたのを思い出す。
まさか、こんなところで再会するとは思ってもみなかった。昨日と同じピンクのドレスで、大きめの、クリリとした愛らしい瞳を高野内に向けると、みさきは、ごめんなさいと深く頭を垂れる。
「みさき……さんだっけ、大丈夫だった?」小夜子はしゃがみ込んで優しく声を掛けると、少女は「あ、昨日のお姉ちゃん」と笑顔を向けた。
小夜子はハンドバッグからチョコレートの包みを取り出すと、美咲に渡した。
「元気がいいね。でも危ないから、船の中で走っちゃだめよ」
「うん、お姉ちゃんありがとう。」
みさきは再び笑顔を見せると、そこに二人の人物が目の前に現れた。
一人は彼女の母親で、確か妙子といったか。昨日とはまた違った落ち着いた雰囲気のライトブルーのドレスを着ている。みさきと高野内がぶつかったいきさつを見ていたらしく、すみませんと頭を下げながら、ふたりの元へ駆け寄ってきた。
だが、問題なのはその後ろに立っている男だ。なんと先程のターミネーターではないか。彼女と一緒にいるという事は――。つまりそういう事なのだろう。
「昨日に引き続き、うちの娘が失礼しました」
女は申し訳なさそうな顔で、深々とお辞儀すると、ポーチからサイフを取り出すのが見えた。
「いえいえ、俺の方こそもっと注意するべきでした」
すると彼女は財布から紙幣を取り出して、お詫びにとでもいいたげに差し出してきた。てっきり千円かと思いきや、なんと一万円札。いくら何でも受け取るわけにはいかない。
お礼を丁重に断ると、高野内はとりあえず挨拶をすることにした。
「昨日はどうも。申し遅れました、わたくし高野内と申します。こちらは峰ヶ丘です」
「峰ヶ丘小夜子です」小夜子は会釈をする。
「あの、私は……」
「ちょっと待ってください。もしかしてあなたは……」
女の言葉をさえぎり、高野内はさっきから気になっていた疑問をぶつけてみた。
「もしかしてあなたは北鳴門氏の方ですよね」
「まあ、どうしてご存じなんですの?」
女は目を丸くして、大きく開けた口に右手をかざした。
やはり妙子夫人に間違いないらしい。北鳴門の話によると、ターミネーター、いやデービッドは彼の奥さんの妙子さんと娘の美咲と一緒に出掛けていると言っていた。ということは必然的にこの女の子も北鳴門美咲で決まりだ。
「やっぱりそうでしたか。じつはご主人と知り合いでして。……といっても、昨日初めてお会いしたばかりなのですが。今日もお昼過ぎにお部屋で話をしていまして、その時、あなたと娘さんの事を伺いました」
「そうでしたか。昨日の事で改めてご挨拶をと思っておりましたが、まさか主人ともお会いになっていたとは。そんな偶然ってあるのですね」
「それに、この人にもさっき会ったしね」
小夜子はデービッドに視線を飛ばす。それに反応したのか、彼もまた顔を小夜子に向けた。
「奥様ハ、モウ帰リダ。オ前ラモ早ク戻レ」美咲の母親は怪訝な顔をボディーガードに向ける。もう少し高野内と話したい様子だった。
高野内としても、もう少し彼女と会話がしたかったが、デービッドの有無をも言わさぬ迫力に負け、ここはひとまず退散することにした。
「お姉ちゃんバイバイ」
無邪気に手を振る美咲に、ふたりは笑顔で手を振り返した。妙子夫人は名残惜しそうだったが、デービッドには逆らえないのか、その後をしっかりとついて行く。やがて彼女たちの姿が見えなくなると、高野内たちはエレベーターホールまで足を進めた。
「まさか、こんなところで彼女たちと再会するとは思わなかったよ」
「そうね、すっごい偶然」
「それにやっぱり妙子さんと美咲ちゃんだったな」
「美咲“さん”でしょ」
「どうもあのくらいの子供に、さんづけは違和感あるな」
「じゃあ勝手に、ちゃん付けで呼べば? 高野内和也ちゃん」
「ハイハイ判りましたよ」
「ハイ、は一度!」
「ハイお嬢様」
「よろしい!」
そこで高野内は、北鳴門夫人が差し出そうとした現金の事を思い出した。
「それにしても、さっきの一万円、惜しかったな。あれが千円札なら絶対に受け取ったのに」
「何バカなこと言ってるの、そんなの貰えるわけ無いじゃない。仮に受け取ったとしてもチョコレートは私のだから、貰う権利は私にあるわ」
「金持ちのクセにちゃっかりしているな。ぶつけられたのは俺の方だぞ」
「あれくらいで怪我するタマじゃないでしょう?」
「あのな、俺の玉はデリケートなんだぞ」
「イヤらしい。レディーの前でそんな下ネタ言わないの」
「誰がレディーだって?」
「もういい」
小夜子はプイと顔を背け、てくてくと歩き出した。高野内も慌てて後に続く。
しかし、それほど腹を立てているわけではないらしく、ほんの数分歩いただけで小夜子は立ち止まり、まるで何事もなかったかのように高野内の方に振り返る。
「ところで今からどうするの? 消灯の時間まで、まだ結構あるみたいだけど」
そう言われて腕時計に目を落とすと、七時少し前を表示していた。確か、消灯の時間は夜の十時。まだ三時間ほどある。バーなどは夜中でも開いているらしいが、ほとんどの店は十時までに閉店してしまう。本番は明日なので、ふたりとも今夜は羽を伸ばしたい気分だった。
「劇場でなにかやっているかもしれないわ」
小夜子はハンドバッグからスケジュール表を取り出すと、それを広げて劇場の予定を確認する。
「ちょうど七時からミュージカルをやるみたいね。『ラ・マンチャの男』だって。知ってる?」
「ああ、ドン・キホーテをモチーフにした有名な舞台だよ」
「ドンキホーテって、あの?」
「言っておくけど激安の殿堂の方じゃないからな」
「え? 違うの?」
「あのな、ドン・キホーテっていうのは……」
しかし小夜子は言葉を遮り、得意げに講釈を垂れ始めた。
「スペインの作家、ミゲル・セルバンテスの小説でしょ? 騎士物語の読み過ぎで、自分を騎士だと思い込んだひとりの老人が、自らをドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャと名乗り、相棒のサンチョ・パンサと、やせ馬のロシナンテを引き連れて、冒険の旅に出掛ける物語。風車を悪魔に見立てて、無謀にも戦いを挑むシーンが有名よね」
「なんだ。知っているんじゃないか」しかも俺より詳しい。心の中で悔しがる高野内であった。
「ちょっとからかっただけよ」
「お前、読んだのか」
「中学の時にね。あれは本当に名作だったわ。もっともミュージカルの方はまだ観たことが無いけど」
しゅんとする高野内に、してやったりの小夜子。歳が倍以上も離れているとは、到底思えないやり取りだった。
折角だからと劇場のあるフロアへと向かった。場所は昨日行った映画館の左隣。昨夜は時間が無くて買えなかった念願のポップコーンとビール(小夜子はコーラ)を持って入り口をくぐり、真っ暗な通路を抜けると、舞台はすでに始まっていた。
後方の席に座ると、ステージの上では主役のドン・キホーテと思しき人物が、仲間たちと共に軽快なメロディーを歌い上げていた。
横から幼い女の子が走って来たかと思うと、高野内とぶつかった。バランスを崩し、その場で尻もちをつくと、顔を歪めながら両手を払う。
ぶつかってきた女の子には見覚えがあった。出航前に波止場で風船を取ってあげた“みさき”という子だ。たしか北鳴門の娘と同じ名前なので、もしかしたら彼の子供なのではないかと感じたのを思い出す。
まさか、こんなところで再会するとは思ってもみなかった。昨日と同じピンクのドレスで、大きめの、クリリとした愛らしい瞳を高野内に向けると、みさきは、ごめんなさいと深く頭を垂れる。
「みさき……さんだっけ、大丈夫だった?」小夜子はしゃがみ込んで優しく声を掛けると、少女は「あ、昨日のお姉ちゃん」と笑顔を向けた。
小夜子はハンドバッグからチョコレートの包みを取り出すと、美咲に渡した。
「元気がいいね。でも危ないから、船の中で走っちゃだめよ」
「うん、お姉ちゃんありがとう。」
みさきは再び笑顔を見せると、そこに二人の人物が目の前に現れた。
一人は彼女の母親で、確か妙子といったか。昨日とはまた違った落ち着いた雰囲気のライトブルーのドレスを着ている。みさきと高野内がぶつかったいきさつを見ていたらしく、すみませんと頭を下げながら、ふたりの元へ駆け寄ってきた。
だが、問題なのはその後ろに立っている男だ。なんと先程のターミネーターではないか。彼女と一緒にいるという事は――。つまりそういう事なのだろう。
「昨日に引き続き、うちの娘が失礼しました」
女は申し訳なさそうな顔で、深々とお辞儀すると、ポーチからサイフを取り出すのが見えた。
「いえいえ、俺の方こそもっと注意するべきでした」
すると彼女は財布から紙幣を取り出して、お詫びにとでもいいたげに差し出してきた。てっきり千円かと思いきや、なんと一万円札。いくら何でも受け取るわけにはいかない。
お礼を丁重に断ると、高野内はとりあえず挨拶をすることにした。
「昨日はどうも。申し遅れました、わたくし高野内と申します。こちらは峰ヶ丘です」
「峰ヶ丘小夜子です」小夜子は会釈をする。
「あの、私は……」
「ちょっと待ってください。もしかしてあなたは……」
女の言葉をさえぎり、高野内はさっきから気になっていた疑問をぶつけてみた。
「もしかしてあなたは北鳴門氏の方ですよね」
「まあ、どうしてご存じなんですの?」
女は目を丸くして、大きく開けた口に右手をかざした。
やはり妙子夫人に間違いないらしい。北鳴門の話によると、ターミネーター、いやデービッドは彼の奥さんの妙子さんと娘の美咲と一緒に出掛けていると言っていた。ということは必然的にこの女の子も北鳴門美咲で決まりだ。
「やっぱりそうでしたか。じつはご主人と知り合いでして。……といっても、昨日初めてお会いしたばかりなのですが。今日もお昼過ぎにお部屋で話をしていまして、その時、あなたと娘さんの事を伺いました」
「そうでしたか。昨日の事で改めてご挨拶をと思っておりましたが、まさか主人ともお会いになっていたとは。そんな偶然ってあるのですね」
「それに、この人にもさっき会ったしね」
小夜子はデービッドに視線を飛ばす。それに反応したのか、彼もまた顔を小夜子に向けた。
「奥様ハ、モウ帰リダ。オ前ラモ早ク戻レ」美咲の母親は怪訝な顔をボディーガードに向ける。もう少し高野内と話したい様子だった。
高野内としても、もう少し彼女と会話がしたかったが、デービッドの有無をも言わさぬ迫力に負け、ここはひとまず退散することにした。
「お姉ちゃんバイバイ」
無邪気に手を振る美咲に、ふたりは笑顔で手を振り返した。妙子夫人は名残惜しそうだったが、デービッドには逆らえないのか、その後をしっかりとついて行く。やがて彼女たちの姿が見えなくなると、高野内たちはエレベーターホールまで足を進めた。
「まさか、こんなところで彼女たちと再会するとは思わなかったよ」
「そうね、すっごい偶然」
「それにやっぱり妙子さんと美咲ちゃんだったな」
「美咲“さん”でしょ」
「どうもあのくらいの子供に、さんづけは違和感あるな」
「じゃあ勝手に、ちゃん付けで呼べば? 高野内和也ちゃん」
「ハイハイ判りましたよ」
「ハイ、は一度!」
「ハイお嬢様」
「よろしい!」
そこで高野内は、北鳴門夫人が差し出そうとした現金の事を思い出した。
「それにしても、さっきの一万円、惜しかったな。あれが千円札なら絶対に受け取ったのに」
「何バカなこと言ってるの、そんなの貰えるわけ無いじゃない。仮に受け取ったとしてもチョコレートは私のだから、貰う権利は私にあるわ」
「金持ちのクセにちゃっかりしているな。ぶつけられたのは俺の方だぞ」
「あれくらいで怪我するタマじゃないでしょう?」
「あのな、俺の玉はデリケートなんだぞ」
「イヤらしい。レディーの前でそんな下ネタ言わないの」
「誰がレディーだって?」
「もういい」
小夜子はプイと顔を背け、てくてくと歩き出した。高野内も慌てて後に続く。
しかし、それほど腹を立てているわけではないらしく、ほんの数分歩いただけで小夜子は立ち止まり、まるで何事もなかったかのように高野内の方に振り返る。
「ところで今からどうするの? 消灯の時間まで、まだ結構あるみたいだけど」
そう言われて腕時計に目を落とすと、七時少し前を表示していた。確か、消灯の時間は夜の十時。まだ三時間ほどある。バーなどは夜中でも開いているらしいが、ほとんどの店は十時までに閉店してしまう。本番は明日なので、ふたりとも今夜は羽を伸ばしたい気分だった。
「劇場でなにかやっているかもしれないわ」
小夜子はハンドバッグからスケジュール表を取り出すと、それを広げて劇場の予定を確認する。
「ちょうど七時からミュージカルをやるみたいね。『ラ・マンチャの男』だって。知ってる?」
「ああ、ドン・キホーテをモチーフにした有名な舞台だよ」
「ドンキホーテって、あの?」
「言っておくけど激安の殿堂の方じゃないからな」
「え? 違うの?」
「あのな、ドン・キホーテっていうのは……」
しかし小夜子は言葉を遮り、得意げに講釈を垂れ始めた。
「スペインの作家、ミゲル・セルバンテスの小説でしょ? 騎士物語の読み過ぎで、自分を騎士だと思い込んだひとりの老人が、自らをドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャと名乗り、相棒のサンチョ・パンサと、やせ馬のロシナンテを引き連れて、冒険の旅に出掛ける物語。風車を悪魔に見立てて、無謀にも戦いを挑むシーンが有名よね」
「なんだ。知っているんじゃないか」しかも俺より詳しい。心の中で悔しがる高野内であった。
「ちょっとからかっただけよ」
「お前、読んだのか」
「中学の時にね。あれは本当に名作だったわ。もっともミュージカルの方はまだ観たことが無いけど」
しゅんとする高野内に、してやったりの小夜子。歳が倍以上も離れているとは、到底思えないやり取りだった。
折角だからと劇場のあるフロアへと向かった。場所は昨日行った映画館の左隣。昨夜は時間が無くて買えなかった念願のポップコーンとビール(小夜子はコーラ)を持って入り口をくぐり、真っ暗な通路を抜けると、舞台はすでに始まっていた。
後方の席に座ると、ステージの上では主役のドン・キホーテと思しき人物が、仲間たちと共に軽快なメロディーを歌い上げていた。