第6話
文字数 5,927文字
ふたりが通された事務所は、操縦室の隣の海の見渡せる部屋だった。
普段ならば海を見渡すのに絶好のロケーションなのだろうが、あいにく、窓の外は昨夜からの嵐で、空は墨を落としたように真っ黒な雨雲で覆われており、吹きすさぶ風が雨粒と混ざり合い、激しい音を立てながら窓にぶつかっている。
入って来た高野内たちを見た飯田橋の目は訝し気な色を見せ、促されるまま簡易的なソファーに座らせられると、彼はその正面に腰を下ろした。高野内たちをここまで連れて来た警備員は、飯田橋の後ろに緊張の面持ちで、姿勢よく気をつけをしている。
「それで、なにを訊きたいのかね。――まさか犯行を自白しに来た訳でもあるまい。手短に頼むよ、これでも忙しい身でね」
飯田橋は、昨夜よりも更に強い口調で圧をかけてきた。
「昨夜の事ですが、寺山田さんたちは何と言っているのですか」高野内は率直に訊いた。
飯田橋は難色を示したが、「警察が来る前に必ず事件を解決してみせます」と高野内が豪語し、小夜子が「その時は、副船長である飯田橋さんの手柄にしていいですから」と助け舟を出すと、飯田橋は渋々といった表情で語り出した。
「判った、君たちを信じよう。直接あの二人に会わせることは出来ないが、私が聞いた内容を説明する。それで構わないな」ふたりは頷いた。「寺山田の話では、妙子夫人とその娘の北鳴門美咲は、二人とも奥のセカンドベッドルームにずっと引き籠っていたらしい……まあ当然だろう。君たちも言っていたが、妙子夫人は夜の十時半ごろ、一旦はワインを買いにデービッドと出掛けたが、また部屋に籠っていたらしい。その時、彼女の顔色は優 れなかったそうだ。まあ、当然だろうな。怪盗シャッフルとかいう大泥棒に狙われているかもしれないんだから。――出来れば、その時にでも我々にひと言、相談して欲しかったがな」
飯田橋は藪にらみの目で高野内を見据えた。まるで高野内を責めているように取れる。
「北鳴門氏と寺山田とデービッドの三人は、ずっとリビングにいたそうだが、夜中の十二時頃に北鳴門がファーストベッドルームに向かい、寺山田はリビングに留まり、デービッドは入り口付近のエントランスに待機していたそうだ。北鳴門が確かにファーストベッドルームに入るところを寺山田とデービッドの二人が目撃している。そして一時になり、何事も起きなかったので少し安心したらしい。しかし突然停電となり、どこからか白い煙が濛々 と発生した。換気しようとスイッチを入れたが、停電のため換気扇は作動しない。すぐに北鳴門の事が心配になり、手探りで彼のいるファーストベッドルームに向かったようだ。――だが、ロックが掛かっておりドアを叩きながら何度も叫んだが、反応は一切無く、そのうち意識が朦朧 としてきて、慌てて外に飛び出したらしい……後は君たちの知っている通りだ」
高野内は、今朝がたベッドで事件を整理していた時に感じた、寺山田の証言の矛盾を思い出した。間違いない、今の飯田橋の話でも同じ矛盾が飛び出していた。しかし、問題は、なぜ寺山田はそのことを“知っている”のだろうか。
飯田橋は話し終えると、彼は、一応断りを入れてから煙草に火をつけた。漂う煙の匂いにつられ、無性に一服したくなったが、小夜子の張り詰めた視線を察して、我慢することにした。
「デービッドさんも同じこと言っていたのですか?」
「あの外人さんはずっとだんまりを続けていて、昨夜の事は一言もしゃべらん。――乗客名簿によると、彼の名前はマーク・デービッド。アメリカ国籍で日本語があまり通じないらしい。だが、英語の堪能なクルーが話しかけてみたらしいが一切応じず、『オ前ラニハ関係ナイ。警察ニ全部話ス』の一点張りだそうだ。身体検査で左胸のホルダーに収まった拳銃が出てきたが、モデルガンだと言い張り、手放そうとはしないらしい。我々は警察では無いから、強引に取り上げる訳にはいかず、渋々そのままにしてある。正直言って対応に難儀しているところだ」
さすがの飯田橋もデービッドには手を焼いているようだった。
「それで、部屋の中はどのような様子でしたか?」
「君も見たかもしれんが、金庫の中には空のケースだけが残されてあった。部屋中はもちろん、フラワーガーデンや廊下やエレベーターなど、あのフロアは優秀なスタッフが隅々まで徹底的に捜索したが、結局何の手掛かりも掴めなかった。まんまと怪盗シャッフルとかいう泥棒に、してやられたワケだ。――そういえば、ファーストベッドルームの北鳴門の死体の傍の床に、軽い傷のついた携帯電話が落ちていたそうだ。念のために寺山田に見せたが、機種と色からして北鳴門の携帯に間違いないと断定したそうだ。履歴を調べてみようとしたらしいが、ロックが掛かっていてパスワードが必要らしい。寺山田も知らないと言っている。警察が調べればいずれ開かれると思うが」
確かに警察ならば携帯会社に依頼してパスワードを解除できるだろう。そこに手掛かりがあるかどうかは別問題だが。
「北鳴門氏の遺体は、どのような状態でしたか?」
「船医によると、現場保存のために死体には直接触れられないが、死因は心臓に突き刺されたナイフによる心肺停止という見識だ。おそらくほぼ即死で間違いないらしい。さすがに死亡推定時間までは判断しかねるということだったがな」
もし、シャッフルの仕業だとすれば、ダイヤを盗むときに刺したと考えるのが妥当だ。しかし、これまで殺人を犯さなかった奴らが、今回はなぜ犯行に及んだのだろう? もしかしたら何か想定外の事態が発生したのかもしれない。
「寝室の窓はどうでしたか? そこから出入りしたという可能性はあるのでしょうか?」
「ベッドルームに限らず、あの部屋の全ての窓に異常は見られなかったし、鍵もしっかりと掛けられていた。――君も知っているだろうが、仮に窓を開けたとしても、転落防止のために十センチ程しか開かないような設計になっている。そこからは絶対に人が出入りできないと断言しよう」
「でも、実際にダイヤが奪われ、北鳴門さんが殺されたわけですよね。飯田橋さん、あなたはどのように考えますか?」
苦々しい表情を浮かべ、飯田橋は短くなった煙草をもみ消すと、続けて二本目をくわえた。
「正直いって、さっぱり判らん。……だが、もし、奴が盗んだとしても、この船から持ち出すことは絶対に不可能だ。警察と協力して下船する乗客や荷物のX線検査はもちろんの事、スタッフの私物から、船底にある貨物に至るまで、徹底的に調べ上げる所存だ。――さすがに人体用のレントゲンまでは用意されないだろうが、寺山田や君たちの話では、あの宝石は飲み込める程の大きさでは無いらしいな。つまり麻薬の密輸みたいに体の中に隠すというトリックは無理だという事だ」
高野内はクレオパトラの涙の形状を思い浮かべる。確かにあれを飲み込むのはリスクが大きすぎる。下手をすれば内臓を傷つけて死亡しかねない。
「美咲ちゃん母娘については?」
「それも頭の痛いところだ。寺山田の話だと、娘の美咲はもちろん、母親の妙子夫人が買い物から帰ってセカンドベッドルームに入ってからは、誰も彼女たちの姿を見ていない。だとすれば、停電の暗闇と発生した煙に紛れて、連れ去られたとしか考えられない。――もっとも、君たち四人が共犯でなければの話だが」
飯田橋は疑惑の目をふたりに向けた。だが、その目は笑っているように思えて仕方がない。四人というのは高野内と小夜子、それに寺山田とデービッドの事を指すのだろうが、さすがに、それはあるまいと飯田橋も思っている様子だった。
「停電はなぜ起きたのでしょうか?」
「天井裏の配電盤に、ちょうど一時にセットされたタイマー付きの簡易的な起爆装置が取り付けてあったそうだ。今、専門のスタッフが詳しく調べておるが、詳細はまだあがってきておらん」
つまりシャッフルは事前に侵入して、装置を設置していたことになる。いくら用心深い北鳴門といえど、天井裏までは調べなかっただろう。もっとも船のスイートに天井裏があること自体、知らなかったと思われる。
「部屋からは発煙筒などは発見されましたか?」
「キッチンの換気扇の中と、リビングルームのテレビ台の後ろから、やはりタイマー付きの発煙筒が出てきたそうだ。配電盤の起爆装置と同様、専門のスタッフに現在調べさせておる。そちらも、一時ちょうどに作動する仕掛けになっていたそうだ。」
「昨夜から今まで、不審な船が近づいてきたりしていませんか?」
「まさか、その船に母娘を乗せて逃亡と言いたいのかね? 残念ながらそれはあり得ない。レーダーや目視で常に監視しているが、そんな報告は一切受けていない」
「しかし小型のボートくらいだったら、見逃した可能性があるのではないですか? 昨夜は雨も降っていたし」
飯田橋は露骨に不服装な顔をする。
「我々を見くびってもらっては困る。仮に子供用の小さなゴムボートだとしても、近づくものがあれば見落とすわけがない。実際に不審なボートを確認したという報告も受けてないしな。……それに忘れてはいないかね、ここは太平洋の上だ。一番近い陸地からでも、百キロ以上離れておる。例え、大型のクルーザーでも容易に近づくことすら、ままならないだろう」
「失礼しました。それで、例えば、誰かが海に落ちたという事もあり得ないわけですね」
「その通りだ。――たまに酔った客が、誤って海に転落する事があるが、百パーセント発見し、救助している。それが死体であったとしてもな」
まるで彼女たちがもう死んでいるみたいな口ぶりだった。それを指摘すると、飯田橋は慌てて首を横に振った。
「そんな事は思っとらんよ。あくまでもたとえ話に過ぎん。ただ、責任者としてあらゆる事態を想定せねばならない。……我々は、彼女たち母娘の無事を心から願っている」
それはきっと本心なのだろう。これ以上、面倒なことに巻き込まれたくないという意味で。
「私たちも、彼女たちがもうこの世にいないとは考えていません。もし、殺されているとしても、船内に隠してればいずれ発見されます。警察の捜査が入れば、なおの事です。――だったら、さっさと海にでも捨てて、仮にそれが発見されても、シャッフルには何のデメリットも無いはずです」
実際には、そうとばかりも言い切れない。死体を捨てようとしても、誰かに目撃されたり、死体が回収されて、それに残された形跡から、なんらかの手掛かりが検出されたりといったリスクがあるが、高野内はあえて黙っていた。
「君の言う通りかもしれん。――では逆に訊くが、彼女たちは、今、どこにいると思うかね?」
「それは判りません。ですが、もし乗客の中にシャッフルがいるのであれば、どこかの部屋に軟禁されている筈です。だとすると、食事はどこかの店で犯人が買って来るか、もしくはルームサービスになると考えます。ですから、それらの乗客をマークすれば、何らかの手掛かりが掴めるかもしれませんね。――もしクルーのスタッフに、シャッフルもしくは、その仲間がいた場合、空室か、一般客が立ち入れない場所に捕らえられている可能性も否定できません」
その推理に感心したのか、飯田橋は数回拍手をした。
「さすがは高野内さんだな。週刊誌を賑わせるだけの事はある。――クルーたちの事は疑いたくないが、その可能性も考慮して、事にあたるとしよう」
「お願いします。とにかく、一刻も早く美咲ちゃんたちを見つけてください」
「我々に任せたまえ。……他に訊きたい事はあるかね」
「最後に一つだけよろしいですか?」
「何だ」
「税理士の松矢野さんをご存知ですよね。関西弁の」
「どうしてそれを知っている? エイラにでも訊いたのか」
「彼とはどういう話をされたのですか」
「それに関してはノー・コメントだ。今回の事件とは関係ない」
「そうでしょうか? 正直、彼の行動には妙に怪しいところがあります。ここに来る途中もスタッフしか入れない通路にいましたし」
「まさか、彼がシャッフルだとでも? あんな下世話なデブの正体が、怪盗シャッフルだとしたら、さぞや衝撃だろうな。平成のルパン三世が、実は紅の豚だったとはね。だとすれば、エイラがシャッフルだったほうが、遥かに話題になるだろうな。ルパンが峰不二子だったと」
ルパン三世ではなく、アルセーヌ・ルパンなのだが――。
「そこまでは考えていませんが、今回の事件と、何らかの関係があると思っています」
「とにかく、松矢野の件は完全にプライベートだ。それとも、まさか私まで疑っているのか? 調べたければ、君たちで勝手に調査してくれ」
「ええ、必要とあらば……そういえば、私に大野城エイラに近づくなとか警告しましたよね。一体どんな意味だったんですか?」
「あれはただのアドバイスだ。下手にスキャンダルにでもなったら、彼女のイメージダウンに繋がるだろ?」
「あなたはいいのですか? 人前で堂々とエイラさんとデートしても」
「このあいだの夜の事を言っているのか? あれは俺も迂闊 だった。あの時、飲み過ぎなければあんな事には……」
飯田橋は慌てて手で口を塞いだ。
「どうしたんですか? あの後、何があったんです」
「何でもない。――とにかく、彼女に迷惑をかけたくなかったら、二度と近寄らないことだな」
「頭の隅にでも留めておきます……お話ありがとうございました。もし、何か判りましたら連絡をお願いできますか」
「了解した。何か情報が入ったら、すぐに連絡するように手配しよう。――だが、君たちもくれぐれも勝手な行動は慎むように。判ったかね?」
「できれば、今から美咲たちを探したいのですが」
「駄目だ。君の推理では、彼女たちは無事なんだろう? それだったら、捜索は我々に任せてくれないか。誘拐された彼女たち母娘が、呑気にその辺をうろうろ歩いている筈はないのだから、君の言う通り、きっとどこかの部屋に閉じ込められているに違いない……それが一般客の入れない貨物室や、エンジンルームだとしたらなおさらだ。さっそくクルーたちに清掃などの口実で客室を回らせるように指示を出す。……それとも、君たちにマスターキーを渡すから、ひと部屋ずつ調べてくれるのかね?」
そこまでいわれて、これ以上出しゃばるわけにはいかない。美咲たちの事が心配でたまらないが、しばらく部屋で大人しくしているほかはないように思えた。
「……そうですね、判りました」ここは素直に引き下がることにした。
「それが賢明だ。いい推理を期待していますよ、高野内先生」
結局、小夜子は一言も話さないまま、ふたりは事務所を後にした。
普段ならば海を見渡すのに絶好のロケーションなのだろうが、あいにく、窓の外は昨夜からの嵐で、空は墨を落としたように真っ黒な雨雲で覆われており、吹きすさぶ風が雨粒と混ざり合い、激しい音を立てながら窓にぶつかっている。
入って来た高野内たちを見た飯田橋の目は訝し気な色を見せ、促されるまま簡易的なソファーに座らせられると、彼はその正面に腰を下ろした。高野内たちをここまで連れて来た警備員は、飯田橋の後ろに緊張の面持ちで、姿勢よく気をつけをしている。
「それで、なにを訊きたいのかね。――まさか犯行を自白しに来た訳でもあるまい。手短に頼むよ、これでも忙しい身でね」
飯田橋は、昨夜よりも更に強い口調で圧をかけてきた。
「昨夜の事ですが、寺山田さんたちは何と言っているのですか」高野内は率直に訊いた。
飯田橋は難色を示したが、「警察が来る前に必ず事件を解決してみせます」と高野内が豪語し、小夜子が「その時は、副船長である飯田橋さんの手柄にしていいですから」と助け舟を出すと、飯田橋は渋々といった表情で語り出した。
「判った、君たちを信じよう。直接あの二人に会わせることは出来ないが、私が聞いた内容を説明する。それで構わないな」ふたりは頷いた。「寺山田の話では、妙子夫人とその娘の北鳴門美咲は、二人とも奥のセカンドベッドルームにずっと引き籠っていたらしい……まあ当然だろう。君たちも言っていたが、妙子夫人は夜の十時半ごろ、一旦はワインを買いにデービッドと出掛けたが、また部屋に籠っていたらしい。その時、彼女の顔色は
飯田橋は藪にらみの目で高野内を見据えた。まるで高野内を責めているように取れる。
「北鳴門氏と寺山田とデービッドの三人は、ずっとリビングにいたそうだが、夜中の十二時頃に北鳴門がファーストベッドルームに向かい、寺山田はリビングに留まり、デービッドは入り口付近のエントランスに待機していたそうだ。北鳴門が確かにファーストベッドルームに入るところを寺山田とデービッドの二人が目撃している。そして一時になり、何事も起きなかったので少し安心したらしい。しかし突然停電となり、どこからか白い煙が
高野内は、今朝がたベッドで事件を整理していた時に感じた、寺山田の証言の矛盾を思い出した。間違いない、今の飯田橋の話でも同じ矛盾が飛び出していた。しかし、問題は、なぜ寺山田はそのことを“知っている”のだろうか。
飯田橋は話し終えると、彼は、一応断りを入れてから煙草に火をつけた。漂う煙の匂いにつられ、無性に一服したくなったが、小夜子の張り詰めた視線を察して、我慢することにした。
「デービッドさんも同じこと言っていたのですか?」
「あの外人さんはずっとだんまりを続けていて、昨夜の事は一言もしゃべらん。――乗客名簿によると、彼の名前はマーク・デービッド。アメリカ国籍で日本語があまり通じないらしい。だが、英語の堪能なクルーが話しかけてみたらしいが一切応じず、『オ前ラニハ関係ナイ。警察ニ全部話ス』の一点張りだそうだ。身体検査で左胸のホルダーに収まった拳銃が出てきたが、モデルガンだと言い張り、手放そうとはしないらしい。我々は警察では無いから、強引に取り上げる訳にはいかず、渋々そのままにしてある。正直言って対応に難儀しているところだ」
さすがの飯田橋もデービッドには手を焼いているようだった。
「それで、部屋の中はどのような様子でしたか?」
「君も見たかもしれんが、金庫の中には空のケースだけが残されてあった。部屋中はもちろん、フラワーガーデンや廊下やエレベーターなど、あのフロアは優秀なスタッフが隅々まで徹底的に捜索したが、結局何の手掛かりも掴めなかった。まんまと怪盗シャッフルとかいう泥棒に、してやられたワケだ。――そういえば、ファーストベッドルームの北鳴門の死体の傍の床に、軽い傷のついた携帯電話が落ちていたそうだ。念のために寺山田に見せたが、機種と色からして北鳴門の携帯に間違いないと断定したそうだ。履歴を調べてみようとしたらしいが、ロックが掛かっていてパスワードが必要らしい。寺山田も知らないと言っている。警察が調べればいずれ開かれると思うが」
確かに警察ならば携帯会社に依頼してパスワードを解除できるだろう。そこに手掛かりがあるかどうかは別問題だが。
「北鳴門氏の遺体は、どのような状態でしたか?」
「船医によると、現場保存のために死体には直接触れられないが、死因は心臓に突き刺されたナイフによる心肺停止という見識だ。おそらくほぼ即死で間違いないらしい。さすがに死亡推定時間までは判断しかねるということだったがな」
もし、シャッフルの仕業だとすれば、ダイヤを盗むときに刺したと考えるのが妥当だ。しかし、これまで殺人を犯さなかった奴らが、今回はなぜ犯行に及んだのだろう? もしかしたら何か想定外の事態が発生したのかもしれない。
「寝室の窓はどうでしたか? そこから出入りしたという可能性はあるのでしょうか?」
「ベッドルームに限らず、あの部屋の全ての窓に異常は見られなかったし、鍵もしっかりと掛けられていた。――君も知っているだろうが、仮に窓を開けたとしても、転落防止のために十センチ程しか開かないような設計になっている。そこからは絶対に人が出入りできないと断言しよう」
「でも、実際にダイヤが奪われ、北鳴門さんが殺されたわけですよね。飯田橋さん、あなたはどのように考えますか?」
苦々しい表情を浮かべ、飯田橋は短くなった煙草をもみ消すと、続けて二本目をくわえた。
「正直いって、さっぱり判らん。……だが、もし、奴が盗んだとしても、この船から持ち出すことは絶対に不可能だ。警察と協力して下船する乗客や荷物のX線検査はもちろんの事、スタッフの私物から、船底にある貨物に至るまで、徹底的に調べ上げる所存だ。――さすがに人体用のレントゲンまでは用意されないだろうが、寺山田や君たちの話では、あの宝石は飲み込める程の大きさでは無いらしいな。つまり麻薬の密輸みたいに体の中に隠すというトリックは無理だという事だ」
高野内はクレオパトラの涙の形状を思い浮かべる。確かにあれを飲み込むのはリスクが大きすぎる。下手をすれば内臓を傷つけて死亡しかねない。
「美咲ちゃん母娘については?」
「それも頭の痛いところだ。寺山田の話だと、娘の美咲はもちろん、母親の妙子夫人が買い物から帰ってセカンドベッドルームに入ってからは、誰も彼女たちの姿を見ていない。だとすれば、停電の暗闇と発生した煙に紛れて、連れ去られたとしか考えられない。――もっとも、君たち四人が共犯でなければの話だが」
飯田橋は疑惑の目をふたりに向けた。だが、その目は笑っているように思えて仕方がない。四人というのは高野内と小夜子、それに寺山田とデービッドの事を指すのだろうが、さすがに、それはあるまいと飯田橋も思っている様子だった。
「停電はなぜ起きたのでしょうか?」
「天井裏の配電盤に、ちょうど一時にセットされたタイマー付きの簡易的な起爆装置が取り付けてあったそうだ。今、専門のスタッフが詳しく調べておるが、詳細はまだあがってきておらん」
つまりシャッフルは事前に侵入して、装置を設置していたことになる。いくら用心深い北鳴門といえど、天井裏までは調べなかっただろう。もっとも船のスイートに天井裏があること自体、知らなかったと思われる。
「部屋からは発煙筒などは発見されましたか?」
「キッチンの換気扇の中と、リビングルームのテレビ台の後ろから、やはりタイマー付きの発煙筒が出てきたそうだ。配電盤の起爆装置と同様、専門のスタッフに現在調べさせておる。そちらも、一時ちょうどに作動する仕掛けになっていたそうだ。」
「昨夜から今まで、不審な船が近づいてきたりしていませんか?」
「まさか、その船に母娘を乗せて逃亡と言いたいのかね? 残念ながらそれはあり得ない。レーダーや目視で常に監視しているが、そんな報告は一切受けていない」
「しかし小型のボートくらいだったら、見逃した可能性があるのではないですか? 昨夜は雨も降っていたし」
飯田橋は露骨に不服装な顔をする。
「我々を見くびってもらっては困る。仮に子供用の小さなゴムボートだとしても、近づくものがあれば見落とすわけがない。実際に不審なボートを確認したという報告も受けてないしな。……それに忘れてはいないかね、ここは太平洋の上だ。一番近い陸地からでも、百キロ以上離れておる。例え、大型のクルーザーでも容易に近づくことすら、ままならないだろう」
「失礼しました。それで、例えば、誰かが海に落ちたという事もあり得ないわけですね」
「その通りだ。――たまに酔った客が、誤って海に転落する事があるが、百パーセント発見し、救助している。それが死体であったとしてもな」
まるで彼女たちがもう死んでいるみたいな口ぶりだった。それを指摘すると、飯田橋は慌てて首を横に振った。
「そんな事は思っとらんよ。あくまでもたとえ話に過ぎん。ただ、責任者としてあらゆる事態を想定せねばならない。……我々は、彼女たち母娘の無事を心から願っている」
それはきっと本心なのだろう。これ以上、面倒なことに巻き込まれたくないという意味で。
「私たちも、彼女たちがもうこの世にいないとは考えていません。もし、殺されているとしても、船内に隠してればいずれ発見されます。警察の捜査が入れば、なおの事です。――だったら、さっさと海にでも捨てて、仮にそれが発見されても、シャッフルには何のデメリットも無いはずです」
実際には、そうとばかりも言い切れない。死体を捨てようとしても、誰かに目撃されたり、死体が回収されて、それに残された形跡から、なんらかの手掛かりが検出されたりといったリスクがあるが、高野内はあえて黙っていた。
「君の言う通りかもしれん。――では逆に訊くが、彼女たちは、今、どこにいると思うかね?」
「それは判りません。ですが、もし乗客の中にシャッフルがいるのであれば、どこかの部屋に軟禁されている筈です。だとすると、食事はどこかの店で犯人が買って来るか、もしくはルームサービスになると考えます。ですから、それらの乗客をマークすれば、何らかの手掛かりが掴めるかもしれませんね。――もしクルーのスタッフに、シャッフルもしくは、その仲間がいた場合、空室か、一般客が立ち入れない場所に捕らえられている可能性も否定できません」
その推理に感心したのか、飯田橋は数回拍手をした。
「さすがは高野内さんだな。週刊誌を賑わせるだけの事はある。――クルーたちの事は疑いたくないが、その可能性も考慮して、事にあたるとしよう」
「お願いします。とにかく、一刻も早く美咲ちゃんたちを見つけてください」
「我々に任せたまえ。……他に訊きたい事はあるかね」
「最後に一つだけよろしいですか?」
「何だ」
「税理士の松矢野さんをご存知ですよね。関西弁の」
「どうしてそれを知っている? エイラにでも訊いたのか」
「彼とはどういう話をされたのですか」
「それに関してはノー・コメントだ。今回の事件とは関係ない」
「そうでしょうか? 正直、彼の行動には妙に怪しいところがあります。ここに来る途中もスタッフしか入れない通路にいましたし」
「まさか、彼がシャッフルだとでも? あんな下世話なデブの正体が、怪盗シャッフルだとしたら、さぞや衝撃だろうな。平成のルパン三世が、実は紅の豚だったとはね。だとすれば、エイラがシャッフルだったほうが、遥かに話題になるだろうな。ルパンが峰不二子だったと」
ルパン三世ではなく、アルセーヌ・ルパンなのだが――。
「そこまでは考えていませんが、今回の事件と、何らかの関係があると思っています」
「とにかく、松矢野の件は完全にプライベートだ。それとも、まさか私まで疑っているのか? 調べたければ、君たちで勝手に調査してくれ」
「ええ、必要とあらば……そういえば、私に大野城エイラに近づくなとか警告しましたよね。一体どんな意味だったんですか?」
「あれはただのアドバイスだ。下手にスキャンダルにでもなったら、彼女のイメージダウンに繋がるだろ?」
「あなたはいいのですか? 人前で堂々とエイラさんとデートしても」
「このあいだの夜の事を言っているのか? あれは俺も
飯田橋は慌てて手で口を塞いだ。
「どうしたんですか? あの後、何があったんです」
「何でもない。――とにかく、彼女に迷惑をかけたくなかったら、二度と近寄らないことだな」
「頭の隅にでも留めておきます……お話ありがとうございました。もし、何か判りましたら連絡をお願いできますか」
「了解した。何か情報が入ったら、すぐに連絡するように手配しよう。――だが、君たちもくれぐれも勝手な行動は慎むように。判ったかね?」
「できれば、今から美咲たちを探したいのですが」
「駄目だ。君の推理では、彼女たちは無事なんだろう? それだったら、捜索は我々に任せてくれないか。誘拐された彼女たち母娘が、呑気にその辺をうろうろ歩いている筈はないのだから、君の言う通り、きっとどこかの部屋に閉じ込められているに違いない……それが一般客の入れない貨物室や、エンジンルームだとしたらなおさらだ。さっそくクルーたちに清掃などの口実で客室を回らせるように指示を出す。……それとも、君たちにマスターキーを渡すから、ひと部屋ずつ調べてくれるのかね?」
そこまでいわれて、これ以上出しゃばるわけにはいかない。美咲たちの事が心配でたまらないが、しばらく部屋で大人しくしているほかはないように思えた。
「……そうですね、判りました」ここは素直に引き下がることにした。
「それが賢明だ。いい推理を期待していますよ、高野内先生」
結局、小夜子は一言も話さないまま、ふたりは事務所を後にした。