第3話
文字数 1,972文字
重い足取りで廊下をフラフラ歩いていると、飯田橋の後ろ姿が高野内の目を捕えた。スタッフ専用の扉の前で、俯きながら体を揺らしている。そこが何の部屋なのか判らないが、ドアに手を掛けるかどうか戸惑っているように見えた。副船長なのだから、堂々と入ればいいものの、緊張の色を浮かべているところを見ると、何か事情があるに違いない。
気配に気づいたのか、飯田橋は一瞬だけ震えあがり、頭だけ振り向くと、視線が合った。顔色が変わり、取り繕うとして体を急にひねったせいか、手にした黒い物体を床に落とし、金属音がジャラジャラと鳴った。慌てて手を伸ばしたが、焦りのためか、なかなかうまく拾えない。ようやく三度目にして回収に成功すると、飯田橋はそれをポケットに入れた。
「これは高野内先生。こんなところでどうしたんですか?」
彼の笑顔は明らかに引きつっている。
「いえ、少々飲み過ぎたものですから、デッキの方で少し風に当たろうと思いまして」まさか小夜子と喧嘩して、やけ酒を飲んだとは言えない。
「それは結構ですね。あそこは夜の眺めも最高ですよ。……ですが、嵐が近づいているそうなので気を付けて下さい。――そういえば峰ヶ丘さんは一緒ではないのですか?」
「いろいろありまして、部屋で休んでいます」
「そうでしたか、では仕事がありますので、ここで失礼させていただきます」飯田橋はお辞儀をすると足早に去っていった。
高野内は再び歩き始めると、去った筈の飯田橋が駆け戻ってきた。
彼は高野内の前に立つと、接客スマイルも忘れ、厳しい顔を彼に向ける。
「ひとつ言い忘れました。エイラには近づかないでいただきたい」
丁寧な言葉遣いだったが、その声は明らかに威圧的だ。
「どういう意味です? 私が誰と会おうと勝手じゃないですか」
「これは、あなたのために言っているのです」
「ちゃんと訳を聞かせてもらえますか。そもそもエイラさんとあなたは、どんな関係なんですか?」
恋人だったらどうしよう、などと考える余裕はない。
「それは言えない」
「だったら私の好きにさせてもらいます」
「……わかりました。でもちゃんと忠告しましたからね。どうなっても知りませんよ」
「ですから、それはどういう……」
「失礼します」
飯田橋はぶっきらぼうに言葉を遮ると、今度こそ本当にいなくなった。
それにしても、エイラに近づくなとはどういう事だろう。仮に、二人が恋愛関係だとして、ライバルを減らすために釘を刺したのだろうか? それとも、彼女との間で何か重大なトラブルが発生して……例えば喧嘩とか……その腹いせとして、エイラだけがチヤホヤされるのが我慢ならなかったとか。それにしては、乗客に対しての発言として、特定の人と会うなとは、船員としていささか問題があるように思える。相手次第では不快感を持つかもしれない。
考えてみると、彼がドアの前で立っていたのは、いかにも不自然だ。今にして思えば、彼は中に人がいるかどうか、聞き耳を立てていたようにも思える。だとすれば、床に落としたジャラジャラという金属音の黒い物体も、そのドアの鍵が含まれたキーホルダーだったという仮説が成り立つわけだ。
飯田橋が先ほどまで立っていたドアに近づいてみた。そこにはスタッフオンリーと書かれた文字の上に、『更衣室』のプレートが貼ってある。男女の表記がないので、ドアの奥で分かれているのだろう。
まさか下着泥棒? 近所でも評判の真面目な好青年が、裏では女性の下着を集めていました、などというニュースを時たま目にするが、彼も案外その口なのかもしれない。
そこで松矢野の言葉を思い出す。
『飯田橋には気を付けなはれ』
やはり副船長には何か秘密があるようだ。少し気になったが、今夜は大仕事が待っている。構っている場合ではない。
展望デッキへと足を進めると、そこは星のない暗闇の世界だった。
さっきまであんなに優しかった海風が、今はガラスの刃のように顔を突き刺す。繰り返す波の音は、耳障りなノイズにしか聞こえず、雲間から微かに覗く月の光は、哀れな道化師をあざ笑うかのように、仄かに輝き、東の空に散らばる僅かな星たちも、ただの光の点にしか見えない。
道化師は静かにまぶたを閉じる。
今頃、小夜子はどうしているだろうか。
ベッドで震えながら枕を濡らす彼女の姿がゆっくりと暗闇の奥から染み出してくると、慌てて目を見開き、乱暴に頭を振った。
……ふと時計を見ると、約束の時間まであと数分に迫っていた。
まだ熱を帯びている頬を、両手で数回叩くと、本当にこれで良かったのかという思いが、これしかなかったんだという結論に達し、スイートルームのあるフロアへと、ふらつく足で駆け出す。
嵐の気配は、もうそこまで迫っていた。
気配に気づいたのか、飯田橋は一瞬だけ震えあがり、頭だけ振り向くと、視線が合った。顔色が変わり、取り繕うとして体を急にひねったせいか、手にした黒い物体を床に落とし、金属音がジャラジャラと鳴った。慌てて手を伸ばしたが、焦りのためか、なかなかうまく拾えない。ようやく三度目にして回収に成功すると、飯田橋はそれをポケットに入れた。
「これは高野内先生。こんなところでどうしたんですか?」
彼の笑顔は明らかに引きつっている。
「いえ、少々飲み過ぎたものですから、デッキの方で少し風に当たろうと思いまして」まさか小夜子と喧嘩して、やけ酒を飲んだとは言えない。
「それは結構ですね。あそこは夜の眺めも最高ですよ。……ですが、嵐が近づいているそうなので気を付けて下さい。――そういえば峰ヶ丘さんは一緒ではないのですか?」
「いろいろありまして、部屋で休んでいます」
「そうでしたか、では仕事がありますので、ここで失礼させていただきます」飯田橋はお辞儀をすると足早に去っていった。
高野内は再び歩き始めると、去った筈の飯田橋が駆け戻ってきた。
彼は高野内の前に立つと、接客スマイルも忘れ、厳しい顔を彼に向ける。
「ひとつ言い忘れました。エイラには近づかないでいただきたい」
丁寧な言葉遣いだったが、その声は明らかに威圧的だ。
「どういう意味です? 私が誰と会おうと勝手じゃないですか」
「これは、あなたのために言っているのです」
「ちゃんと訳を聞かせてもらえますか。そもそもエイラさんとあなたは、どんな関係なんですか?」
恋人だったらどうしよう、などと考える余裕はない。
「それは言えない」
「だったら私の好きにさせてもらいます」
「……わかりました。でもちゃんと忠告しましたからね。どうなっても知りませんよ」
「ですから、それはどういう……」
「失礼します」
飯田橋はぶっきらぼうに言葉を遮ると、今度こそ本当にいなくなった。
それにしても、エイラに近づくなとはどういう事だろう。仮に、二人が恋愛関係だとして、ライバルを減らすために釘を刺したのだろうか? それとも、彼女との間で何か重大なトラブルが発生して……例えば喧嘩とか……その腹いせとして、エイラだけがチヤホヤされるのが我慢ならなかったとか。それにしては、乗客に対しての発言として、特定の人と会うなとは、船員としていささか問題があるように思える。相手次第では不快感を持つかもしれない。
考えてみると、彼がドアの前で立っていたのは、いかにも不自然だ。今にして思えば、彼は中に人がいるかどうか、聞き耳を立てていたようにも思える。だとすれば、床に落としたジャラジャラという金属音の黒い物体も、そのドアの鍵が含まれたキーホルダーだったという仮説が成り立つわけだ。
飯田橋が先ほどまで立っていたドアに近づいてみた。そこにはスタッフオンリーと書かれた文字の上に、『更衣室』のプレートが貼ってある。男女の表記がないので、ドアの奥で分かれているのだろう。
まさか下着泥棒? 近所でも評判の真面目な好青年が、裏では女性の下着を集めていました、などというニュースを時たま目にするが、彼も案外その口なのかもしれない。
そこで松矢野の言葉を思い出す。
『飯田橋には気を付けなはれ』
やはり副船長には何か秘密があるようだ。少し気になったが、今夜は大仕事が待っている。構っている場合ではない。
展望デッキへと足を進めると、そこは星のない暗闇の世界だった。
さっきまであんなに優しかった海風が、今はガラスの刃のように顔を突き刺す。繰り返す波の音は、耳障りなノイズにしか聞こえず、雲間から微かに覗く月の光は、哀れな道化師をあざ笑うかのように、仄かに輝き、東の空に散らばる僅かな星たちも、ただの光の点にしか見えない。
道化師は静かにまぶたを閉じる。
今頃、小夜子はどうしているだろうか。
ベッドで震えながら枕を濡らす彼女の姿がゆっくりと暗闇の奥から染み出してくると、慌てて目を見開き、乱暴に頭を振った。
……ふと時計を見ると、約束の時間まであと数分に迫っていた。
まだ熱を帯びている頬を、両手で数回叩くと、本当にこれで良かったのかという思いが、これしかなかったんだという結論に達し、スイートルームのあるフロアへと、ふらつく足で駆け出す。
嵐の気配は、もうそこまで迫っていた。