第3話

文字数 2,868文字

 携帯電話が着信を知らせる音を鳴らす。知らない番号だが、おそらく北鳴門に違いない。二度目に会ったときに名刺を渡してあり、そこに携帯番号を記しておいたのだ。そういえば部屋へ向かう途中だった。通常、海の上では圏外になるが、この船にはWi-Fiが装備されているので、ネット経由で携帯が使える仕組みになっていた。
『もしもし、高野内くんか?』
 案の定、北鳴門からだった。
『ちょっと、今から来てくれないか』北鳴門は興奮した声でそう言った。
「え? 今、ちょうどそちらに伺おうと思っていたところで、もう近くまで来ているんですが、何かあったんですか?」
『詳しくは君が着いてから話す。とにかく急いでくれ』
 そう言い残すと、プツッと通話が途切れた。
「何か緊急事態のようだ。やっぱりお前は、今からでも部屋に戻って、待機しておいた方がいい」
 ルームキーを強引に渡し、小夜子の背中を両手でエレベーターホールの方にぐっと押すが、彼女は振り返って高野内の目をじっと見据えた。
「これでもあなたの助手ですからね。せっかくここまで来ておいて、一緒に行かない訳にはいかないでしょう? 乗りかかった舟よ、最後まで手伝わせて」なんとも頼もしい助手だ。もう乗っているんだけどな。いろんな意味で
 覚悟を決めると、ふたりは目の前にある北鳴門の部屋のドアの正面に立った。この時、無人の筈の広場の奥に、誰かの姿が見えたような気がしたが、誰なのかまでは判別できない。松矢野が引き返してきたのだろうか?
 チャイムを押すと、間髪入れずにドアが開いた。待ってましたとばかりに寺山田が顔を出し、昨日のリビングへと促した。
 そこには、北鳴門が深刻な表情を浮かべてソファーに沈み込んでいる。
「……これを見てくれないか」
 ソファーに座った高野内たちの前で、北鳴門は内ポケットから見覚えのある、白い封筒を取り出すと、震える手でテーブルの上に置いた。
 悪い予感のする高野内は、それを開き、中の紙を広げると、そこに書かれたメッセージに釘付けとなる。
 高野内は、そのメッセージを声に出して読み上げた。「クレオパトラの涙といっしょに、お前の大事なものをいただく。怪盗シャッフル」
 昨日と同様に漢字とカタカナで書かれていて、文字はやはり角ばっていた。微かにインクの匂いもする。封筒と予告状を入念に調べたが、手がかりは見つからない。
「これはどこにあったのですか?」
 前のめりになりながら、北鳴門の不安げな顔をじっと見つめた。
「今から三十分ほど前だ。入り口の方でチャイムの音がして、寺山田がドアの下にこれが挟んであるのを見つけた。彼は急いで外に出て周りを探したようだが、既に誰もいなかったらしい」
 三十分前? さっきまで広場には松矢野がいた。他には誰もいなかったのだから、シャッフルが来たのは、その前になる。もしかしたら、松矢野はすれ違ったのかもしれない。それとも予告状は、彼自身の手によるものなのだろうか。だとすれば、彼こそが怪盗シャッフルなのかもしれない。あまりにもイメージが違い過ぎるが、現実とは、果たして、そんなものなのだろう。 
「ここにある『大事なもの』とは何でしょうか」
「それが、全く心当たりが無いんだ。宝石類はあのダイヤしか持ってきてないし、現金も使わんから手元には僅かしかない」
「大事なもの……やけに抽象的な表現ですね」そこで高野内は、何かを閃いた。「あ! もしかしたら……」
 思わず口をつぐむ高野内。頭に浮かんだ考えを、北鳴門に話すべきか悩んでいた。
「どうしたの? 何か考えがあるなら男らしくはっきりと言ったら?」
 人の気も知らないで。小夜子は高野内をせっつく。
「私からもお願いする。思いついたことがあれば、何なりと正直に言ってくれないか」
 その言葉に膝を叩くと、ひと呼吸してから口を開いた。
「……これはあくまでも私の想像なのですが、もしかすると、怪盗シャッフルは、あなたの娘さんを狙っているのではないでしょうか」
 北鳴門は絶句している。ポケットからハンカチを取り出すと、顔全体に噴き出た脂汗を拭った。
「まさかそんな……美咲ちゃんが……」小夜子は、目を見開いて高野内の方を向くと、彼のズボンを強く握りしめた。
「怪盗シャッフルは美咲の命を狙っていると?」北鳴門の質問に、高野内は首を振った。
「奴は今まで、殺人を犯したことはありません。ですから、もし美咲さんを狙っているとすれば、誘拐を考えているだろうと推測されます。仮に、奴がダイヤを盗み出すことに失敗しても、娘さんを人質にしてダイヤを要求する気なのかもしれません」
 北鳴門を刺激しないように、できるだけ慎重に、そして穏やかに話した。
「美咲さんは今どこに?」小夜子が訊いた。
「……美咲は妻とデービッドと一緒にランチに出かけた。予告状が届く前だ。その後ショッピングに行くといっていたが」
「そういえば、お二人に会いましたよ」
「え? どこで?」
 北鳴門の顔色が変わった。おそらく彼は心配で気を揉んでいるのだろう。
 昨日、美咲たちと出会ったいきさつを簡単に伝えると、北鳴門は、そうでしたかと小さく吐息を漏らした。おそらく、奥さんかデービッドから聞いていた筈だが、初めて聞くような素振りだった。彼らの関係性が少しだけ垣間見ることができたような気がした。
 小夜子は尿意を催したらしく、北鳴門に断りを入れてからトイレに駆け込んでいった。
 不安に駆られた高野内は「連絡を入れてみてはどうですか?」と、進言した。
「そうしよう」
 北鳴門は、携帯電話を取り出してかけてみた。しかし、呼び出し音が延々と続くのが、高野内の耳にも届いていた。続いてデービッドにも電話を入れたようだったが、これも同じ。
 北鳴門はため息交じりに下を向く。「二人とも電話に出ない。もしかして、美咲たちの身に何かあったのかもしれない」
「それはまだ分かりません。予告の時間まで、まだ時間がありますので、今から我々が探してみましょう」
 だが、北鳴門はその提案を拒絶した。
「それは断る。捜索は寺山田に任せることにしよう。私はここを離れる訳にはいかないので、妻たちに電話を掛け続けるが、君たちは部屋で待機していて欲しい。無事を確認したら必ず連絡するから」
「ですが……」
「頼むから言う通りにしてくれないか。変に騒ぎ立てられても困るんだ。昼過ぎになっても見つからなかった場合は、その時こそお願いする」
 そこまで言われては従うしかない。
「……分かりました。……ですが、先ずは警備員に連絡して、船内放送をお願いしてみてはどうでしょうか」
「いや、それも、もう少し待ってみる。こうしている間にも、ひょっこり帰ってくるかもしれないからな。――さっきも言ったように、昼過ぎになっても見つからない場合は、私から船長に頼んでみるさ」
 これ以上話しても無駄だと悟り、小夜子がトイレから戻ったタイミングで、部屋を出ることにした。
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