全1話

文字数 3,540文字

 十月十日。

 ここは高野内探偵事務所。
 都内のこじんまりとした雑居ビルの三階に存在する、これまたこじんまりとした事務所である。形ばかりの応接間の薄汚れたソファーに、ひとりの男がよだれを垂らして寝そべっていた。
 この無精ひげの男こそが、自称名探偵、高野内和也(たかのうち、かずや)だ。この日も朝から仕事が無く、日がな一日を、このソファーの上で過ごしていた。
 カーテンの隙間から差し込む中秋の陽気な日差しを浴びながら、“名”探偵は、いつ来るとも知れない依頼を、うたた寝をしながら静かに待ちわびているのであった。

 そんな均衡が破られたのは、夕方の五時を少しまわった頃だ。
「探偵、いる?」
 突然、事務所のドアが、音を立てて開かれたかと思うと、ひとりの少女が、遠慮も無く、ずかずかと音を立てるようにしながら入って来た。
「なんだよ、またお前か。……どうした? おねしょでもしたのか」
 高野内の前に現れたのは、峰ヶ丘小夜子(みねがおか、さよこ)、十七歳。彼女は現在、都内の有名私立に通う高校二年生である。小柄でほっそりとした体形をしており、丸顔の割には端正な顔立ちで、きっと美人の部類に仕分けされるのだろうが、高野内とは年齢が倍近く離れており、とても異性としては見ていなかった。彼女は有数の資産家で、このビルのオーナーの娘だった。普段は近所の高級マンションに住んでいるが、事務所が近いこともあり、時折ここに顔を出しては高野内と雑談する間柄。高野内としては、いい加減うんざりしていたが、ここ半年以上も家賃を滞納していることもあり、嫌々ながら相手をしていた。この日も学校帰りなのか、紺色のチェックの柄の入ったブレザーの制服姿で、手にしている学生鞄には以前、修学旅行で買ったと言っていたパンダのキーホルダーが激しく揺れていた。どうやら急で階段を駆け上がって来たらしく、ハアハアと息を切らしている。
 小夜子は息を整えた後、頬を膨らませ、腰に手を当てながら言い放った。
「またこんなに散らかして、たまには掃除しなさいよ。ただでさえ少ない客が、全っ然寄り付かなくなるわよ。――どうせ今日も仕事無かったんでしょう? もう何日目? いい加減事務所を畳んだら?」
 相変わらず辛辣な事を言って来るヤツだ。女房気取りもいい加減にしてもらいたいところだぜ、まったく。
「もうすぐ大きな仕事が入る予定なんだよ。そうしたら、まとめて家賃を払ってやるって親父さんに言っておいてくれ」
「その台詞、もう何十回も聞いていますけど?」
 聞こえない素振りをしながらおもむろに起き上がると、新聞や雑誌の散乱しているテーブルの中から煙草を取り出し、煙を堪能し始めた。
「……で、おねしょじゃなかったら、今日はどうしたんだ」
 短くなった煙草の吸殻を山盛りの灰皿に押し付けると、今度は立ち上がってコーヒーを入れる。言うまでもなくインスタントだが。
「今日はいい話を持って来たのよ」
 カップを傾けながら軽くため息を吐くと、小夜子の顔を見据えながら首をすぼめる。
「またか。お前の持ってくる“いい話”にはロクなものがないじゃないか。――いつだったか、家出人の捜索を依頼された時は、『実は家の押し入れに隠れていました』なんて結局報酬を貰い損ねたし、この前なんか金持ちの仔犬が逃げ出して、やっと捕まえたと思ったら、『やっぱり飽きたからもういらない』と言われたり……そういえば浮気調査の件でも、依頼者の妻の浮気相手と鉢合わせになりボコボコにされ、結局二か月も入院したじゃないか。――確かあれもお前が持ち込んだ“いい話”だったよな」
「あの時はごめんなさい。でも,
 今日のは、かなり“オイシイ話”よ」
 空いたカップを流しに入れると、高野内は再びソファーに腰を下ろした。目の前の小夜子は肩まである髪をいじりながらもとした目を彼に向けていた。
「で、その“オイシイ話”ってのは?」
 すると彼女は、もったい付ける様に、パンダを揺らしながらゆっくりと学生鞄を開け、中から一枚のパンフレットを取り出した。
「これなんだけどね」
 二色刷りのパンフレットを受け取ると、それに目を落とす。
「ええっと、『豪華客船“弥生丸”で行く、秋のオーシャンクルーズ、一週間の旅』……なんだこれは?」
「この間、商店街のお祭りがあったでしょう? その時に福引があって。私、それに当たっちゃったの。特等よ、特等!」
「そういえばそんな祭りあったな。……なんだ、その事を自慢しに来たのか」
「話は最後まで聞いて。早速両親に話したら、『まだ未成年なんだから、一人では行かせられません』だって。ね、勿体ない話でしょう?」小夜子は明らかに不機嫌そうだ。
「そうだな。でもお前の家は金持ちだから、わざわざ景品なんて利用しなくても、その気になれば、いつでも行けるんじゃないのか?」
「それじゃあ、つまんないじゃない。私としては両親と離れて旅行がしたいの」
 嫌な予感がした高野内は、小夜子を見据えながら顎をさする。
「ひょっとして俺について来いと?」
 同調するように、小夜子もまた顎をさすった。「さすがは名探偵ね。いい推理してますなぁ」
「冗談じゃない! どうして俺なんだ? 友達を誘えばいいだろ」
「学校の友達は、みんな受験で行けないのよ。それに友達もみんな未成年だし」
「お前は受験勉強しなくていいのかよ」
「私は成績優秀で、推薦も決まっているの。東大の理学部によ。正確には理工学部だけど」
 そうだった。小夜子は頭脳明晰で、成績はいつも学年トップクラス。現在も二年生を代表して生徒会長をしており、『受験勉強なんてものは、要領の悪い人がするものよ』と常に豪語していたのを思い出した。
「だからといって、男の俺が一緒だなんて、両親は反対じゃないのか?」
 すると、小夜子はすまし顔で、「まさか。これはパパたちから勧められたのよ。あなたと一緒なら旅行を許可するって」と、いつも置きっぱなしになっている彼女のカップに、自分でインスタントコーヒーを入れ、両手で抱えながらすすり飲んだ。
 額に手を当てながら、天井を仰ぎ見る。
「おいおい、本気かよ。お前みたいなガキのお守なんか、冗談じゃないぜ」
「そうかしら。無料(ただ)で豪華客船に乗れるのよ。それも一週間、豪華な食事付きで」
「どうせなら、飛び切りの美女とご一緒したいところだぜ。小便臭い小娘じゃなくて、大野城エイラみたいなさ。」
「小便臭くて悪かったわね。それに大野城エイラって誰?」
「お前知らないのか? 人気絶頂のグラビアアイドルで、とにかくキュートでセクシーなんだ。――ほら、そこにあるだろ?」
 高野内はキッチンの横の壁に貼ってあるポスターを指さした。そこには腰まで伸ばしたワンレン、見事なプロポーションのビキニ姿の女性モデルが悩まし気なポーズで、弾けんばかりの笑顔を浮かべている。ハーフであるらしく、彫りの深い目鼻立ちがハッキリとした顔立ちで、どことなくヨーロピアンな雰囲気を醸し出していた。
「大野城エイラ? ふ~ん、あなたってこんなのがいいの。どうせ、こういう女に限って腹黒に決まっているわ。可愛い顔して、裏では他人を出し抜くことしか考えてないのよ。……こんなのに騙されるなんて、男ってホント馬鹿ね。」ふくれっ面の小夜子は、プイと顔を背けた。
「お前、偏見の塊だな。自分がモテないからって妬くなよ」
「別に妬いてなんかいないわ。こう見えても男子には評判いいのよ。今度ラブレターを見せましょうか?」
「結構。まあそういう訳で、この話はお断りだ。悪いが他を当たってくれ」
 厳しい顔つきで小夜子を無理矢理立たせると、腕を取り、入り口のドアまで引っ張っていった。だが、彼女としても黙ってはいない。
「報酬として、家賃を四か月分チャラにするけど、それでも駄目?」
 動きを止めた高野内は、笑顔を浮かべながらその手を放して右手を胸に当てると、深々と頭を下げた。
「……これでも探偵の端くれ。か弱いお嬢さんに心細い一人旅をさせるのは、わたくしの主義に反します。不肖、高野内和也。峰ヶ丘小夜子様のお供、是非やらせていただきましょう」
「調子いいわね。じゃあ決まった。早速だけど出発は明日だからよろしく頼むわよ」
「明日? ちょっと急すぎないか。こっちにも準備ってものが……」
「パンフレットにそう書いてあったでしょう? 探偵のくせに注意力足りないわね」
 小夜子はピースサインを残して事務所を出て行った。
 急いでパンフレットを確認すると、確かに出発日は明日の日付になっている。
 ため息をつかずにはいられなかったが、これで家賃が払えると思うと、少しだけ胸が軽くなった。

 これが悪夢の始まりになろうとは、この時の探偵は知る由もなかった……。
 
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