第3話

文字数 2,718文字

 ためらいがちにチャイムを鳴らし、バツの悪そうに顔をふせた小夜子がドアを開ける。
 彼女は何も言わず、ベッドでうつ伏せになり、ファッション雑誌を読みだした。高野内のベッドの上には、茶色の紙袋が置いてある。手に取ると、その袋には『ごめんなさい』と手書きの文字が見えた。中身は高級ウイスキーだった。
 こんなものなんかに釣られて、さっきの事を帳消しにするバカがどこにいるというのだ、高野内以外に。

 時刻は五時二十分。
 小夜子の誘いで夕食がてら、ふたりは展望デッキに昇ることにした。
 デッキに出ると、西の空が橙色に染まり、水平線にオレンジ色の夕日が沈みかけていた。その光景を見るために大勢の人が溢れ、みな、西の海を眺めている。
 ふたりは手すりに寄り掛かる。今夜の大仕事の事をしばし忘れ、その景色に浸っていく。潮の香りが鼻腔をくすぐり、頬にあたる海風が実に心地良い。穏やかな波の音が子守歌のように耳に沁みると、遠くに見える行き交うカモメたちは、まるでリズムに乗りながらダンスを踊っているようだった。考えてみれば、この弥生丸に乗船して以来、こうしてゆっくりと眺めるのは初めてのことである。
 明日もこんなふうに夕日を拝めることができるのだろうか。
 そんな不安が頭をよぎると、隣で手すりに頬杖をついている小夜子に視線を向ける。オレンジ色に染まる探偵助手は、どこか儚げに映った。
 その横顔を見ているうちに、北鳴門家の事はもちろん、小夜子のことも決して傷つけさせないという決意が込み上げてきた。それはもちろん報酬の家賃四か月分のため――だけでは無い……多分。
 夕日が海面に半分ほど沈んだ頃、ふと、反対側の東の空を振り返る。遠くに黒く厚い雲が広がっており、今夜にでも降り出しそうな予感がした。

 それは突然の事だった。夕食を取ろうと、展望デッキを離れ、人ひとり通れるほどの狭い階段を降りて、エレベーターへ続く廊下を夕陽の余韻に浸りながら、のんびりと歩いている時だ。
「あれ? 高野内はんやないか。あんたも夕陽を見に来とったんか」
 松矢野……下の名前はたしか平祐だったか。彼は相変わらずのにやけ顔で、その太鼓腹を揺らし、汗を拭いながら扇子を仰いでいる。見ると、小夜子の顔はあからさまに歪みだした。
「それにしても暑いでんのう。十月やいうのに真夏のようですわ。こりゃ、ひと雨来るかも知れまへんな」
 いつも思うのだが、その体型なら、さぞかし暑かろう。
「あなたも夕日を眺めに来ていたんです?」
 仕方なく会話を交わす高野内。
「ちゃうちゃう。わしはそんなものに興味あらへんがな。――船長の飯田橋っちゅう人に、税金の事で色々と相談に乗ってあげてた訳や」
「飯田橋さんは船長じゃなくて副船長ですよ」
 なんと松矢野も飯田橋と知り合いだったとは。世の中は――いや船の中は意外と狭いものだ。おそらく節税の相談だろう。しかし、エイラといい、飯田橋といい、二人ともそれなりに稼いでいるだろうから、税金くらいポンと気前よく払ってやればいいのに、と考えるのは大金に縁のない貧乏人のひがみか。
「どっちでもええ。船長やろうが副船長やろうが、わしにはよう判らん。エイラの頼みやから引き受けたんや……こら内緒やで」
 内緒だといいながら、こうしてべらべらと喋っているところを見ると、飯田橋は相談相手を間違えたらしい。どうやら松矢野の辞書に守秘義務という言葉はないようだ。おそらく、三日後には、船内全員がこの事を知ることになるだろう。なんだか飯田橋が可哀そうに思えてきた。だが高野内も人の事は言えない。彼も解決した事件の話となると、途端に饒舌になる。もっとも、そこにはフィクションが過分に盛り込まれるのだが。
「そういえば、エイラさんとデートしたそうですね」
「何でそのことを知っとるんや。あんた警察か? CIAか? スコットランドヤードか?」
 ワザとか?
「あなたが自分で言っていたじゃないですか。ほら、スイートルームの前の広場で」
 松矢野の顔が一瞬曇ったが、またすぐの、にやけ顔に戻る。
「ああ、そうやったそうやった。エイラとデートして、その後、彼女の頼みで飯田橋に会うたんや」
 エイラの頼みで? どうやらエイラ自身が税金のトラブルを抱えているわけでは無かったようだ。それにしても飯田橋とエイラは、一体どのような関係なのだろうか。
「そうだったんですね」
「ええか、ここだけの話やぞ。エイラのやつ、わしに惚れとるな……わしを見つめる彼女の目は、本気で恋をしとる女の目やった。――まあ見た目通りのイケメンやから、しゃあないかも知れへんが」
 勘違いも甚だしい。よくその顔で自分の事イケメンと言えるな。エイラがお前なんかに惚れる訳ないだろ。さっき彼女もデートじゃないときっぱりと否定していたし――。
「そうかもしれませんね。松矢野さんも、さぞかしモテるでしょうから」
 高野内も社交辞令という言葉くらいは知っている。だが、松矢野には通じていない様子。まんざらでもない顔で、
「せやな。それに実際エイラに彼女の部屋に誘われたし、エイラならわしにお似合いや。結婚式には呼ぶさかい、期待して待っといてや」
 このオヤジ、すっかり舞い上がってる。だがエイラの部屋に誘われたのは本当だろう。もちろん“お友達”として。調子に乗って変な気を起こさねばいいが……。
「申し訳ないですが、私たち急ぎの用がありまして、もう失礼してもいいですか。その話の続きはまた今度にでも聞かせてください」
 さすがにこれ以上のろけ話には付き合いきれない。
「そうでっか。急ぎのところ、そら悪かったでんな」
「いえ、こちらこそすみません」
 早くその場を離れたかったのだが、松矢野は腕を引き、高野内に耳打ちをした。
「最後に一つええか?」
「何ですか」
「船長の、いや副船長だったかいな。とにかく飯田橋には気をつけなはれ」
「? どういう意味です?」
「悪いことは言わんさかい関わるのは止めとき、痛い目に合うで。せや、そこの霧ヶ峰の姉ちゃん、わしに惚れるなよ」
「峰ヶ丘です。誰があんたに惚れるものですか」
「ほな、さいなら」
 鼻歌を唄いながら松矢野は去っていった。
 最後の彼の言葉は一体何だったのか。飯田橋に気をつけろとはどういう意味だろう。「あのスケベオヤジのことだから、適当な事言ってんじゃないのかしら? エイラの恋敵だと思って」とは小夜子の弁。
 本当にそうだろうか? 
 人は見かけによらないと言うが、一見何の問題もなく見えるあの飯田橋にどんな裏の顔があるというのだろうか……。
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