第2話

文字数 2,291文字

 エレベーターを降りて少し歩くと、そこは、あのフラワーガーデンのある広場だった。ふたり並んで座った洋風のベンチが、もうすっかり過去のように思えてくる。ショッピング街に寄り道して買ったあるものを入れた紙袋をベンチ裏の目立たない場所に置き、廊下を進むとスイートのドアの前に立つ。胸の鼓動は酔った暴れ馬のように激しく脈打ち、その反面、身体は彫刻のように堅く冷たい。さらに、蛇口をひねったように噴き出す脂汗が、その流れを止めようとはしなかった。
 まぶたを深く閉じる。
 今ならまだ引き返せる。これから自分のやろうとしている事は、単なる自己満足に過ぎないのではないのかという思いが、頭の中を支配する。
 もし、自分の推理が間違っていたら、取り返しのつかないことになってしまうかもしれない。しかし、このままにしておくのもはばかられた。こうなったら、自分の出来ることを実行するだけだと言い聞かせるしかなかった。
 逡巡しながら北鳴門の部屋の“となり”のドアのチャイムを押した。
 
 しばらくして、中からごそごそと音が聞こえたかと思うと、ゆっくりとドアが開く。招き入れられた高野内は玄関で靴を脱ぐと、何かそこに違和感を憶えた。だが、今は気にする余裕はない。
 リビングに通され、高野内はその空間をぐるりと見廻す。初めてのはずなのに、どこか懐かしい感じがするのは、当然ながら、北鳴門と同じ部屋の作りのせいではあるが、それでも女性らしい香水の匂いが漂ってくると、本来の目的も忘れそうになり、しばし妄想の世界に酔いしれた。
促されるままに、かしこまりながらソファーに座ると、彼女はテーブルに紅茶を運んできた。いつもはダージリンらしいのだが、今日はアールグレイなのだそうだ。しかし高野内には違いなど判りそうもない。
「まさか、本当に来てくれるとは思わなかったわ」
 大野城エイラは、髪の毛を撫でながら、無垢な子供のような笑顔を浮かべる。だが、その仮面の裏に、もう一つの恐ろしい顔が潜んでいることを高野内は知っていた。
「すみませんエイラさん。お言葉に甘えて図々しく来てしまいました。男性が一人でレディーの部屋を訪れるのが、マナー違反だという事は承知していますが、どうしても君と話がしたくて」丁寧に詫びを申し入れる。
「私もよ。せっかく、高野内さんと知り合いになったんだから、探偵さんのお仕事の話なんかを、色々と聞かせてもらいたいと思っていたところなの」
「本当は、峰ヶ丘も一緒にと誘ったのですが、彼女は、今、フィッシングに夢中でして。……知っていますか? この船に巨大な釣り堀がある事を」
「ええ、もちろん。実際には、まだ行ったことは無いけれど、相当立派らしいわね」
「是非一度、行ってみてください。きっと楽しめると思いますよ」
「その時は、高野内さんもご一緒してくださるの?」
「お誘いとあらば。――しかしそれは難しいかもしれません」
「あら、彼女さんが焼きもちを焼くから?」
「そうではありません。理由は君もご存知でしょう?」
 エイラの笑顔が消えて警戒の色に変わった。高野内は動揺を押し隠すかのように、顔を伏せながらティーカップのスプーンを素早くかき回す。
 高野内の顔をじっと睨みつけるエイラ。「……どうやら、武勇伝を聞かせてもらえる雰囲気ではなさそうね」彼女は一片の隙も見せないといった表情で、獣の瞬きをした。
「一昨日の深夜に起こった事件をご存知ですか」
「ええ、飯田橋さんから聞きました。確か北なんとかさんが殺されたとか。部屋が隣だったから、怖くてすくみ上りましたわ」
「北鳴門です。事件は無事に解決しましたから安心してください」
「それも聞きました。何でも飯田橋さんが事件を解決したという話でしたけど……本当は、あなたが解き明かしたんじゃないかと睨んでいますけど、いかがかしら?」
「その辺はご想像にお任せします……ついでに、もう一つ質問してもいいですか」
「何でしょう」エイラは指を前に組んだ。
「クレオパトラの涙という宝石をご存知ですか?」
「クレオパトラの涙? さあ聞いたことありません」
「飯田橋は話さなかったでしょうが、北鳴門はその宝石をこの船に持って来ていていたのです。ここだけの話ですが、五億円の価値があるそうですよ」
「五億円? 私もそのクレオパトラの涙とかいう宝石を見てみたかったわ。でも、それと釣り堀と、どういう関係があるのかしら」
「もう少し待ってください。最後にあと一つだけ。怪盗シャッフルをご存知ですよね?」
「知ってます。平成のルパン三世でしょう? 仕事場でも話題になってますよ」
「ルパン三世じゃなくてアルセーヌ・ルパンです」
「似たようなものでしょう」
「全然違います」
「それで、怪盗シャッフルがどうしたの?」
「実は北鳴門の元にシャッフルから予告状が届いていましてね。北鳴門が殺された時に、クレオパトラの涙も、まんまと盗まれたのです」
「そうでしたの。――殺された挙げ句に、五億円の価値のあるダイヤも盗まれては、その北鳴門さんも、さぞや無念だったでしょうね」
「私もそう思います」もちろん本心ではない。ダイヤは北鳴門自身が海に落としたのだから。
「怪盗シャッフルって意外と残酷なのね。いくらダイヤを盗むためとはいえ、人殺しまでするなんて……でも、もう犯人は捕まったのでしょう? ルパンも遂に銭形の手に落ちたのね」
 期は熟した。
 高野内は膝の上で拳を固めると、鼻から息を吸い込み、ゆっくりと吐き出してみせる。

「君が怪盗シャッフルだったのですね」
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