第1話

文字数 3,414文字

 十月十七日。旅行最終日。

 ボォーーー!
 様々な思いを乗せて、身を震わせる程の大きな汽笛が鳴る。波乱万丈の船旅も、いよいよ終わりを告げる時がやってきた。一週間ぶりに横浜港に帰港すると、孤高の探偵とその助手は三佐樹家の三人と共に波止場へと降り立つ。
 昨夜、小夜子を部屋に残して、高野内は飯田橋と落ち合い、その後の話を聞いていた。彼の話によると、結局ダイヤは見つかったそうだ。『クレオパトラノ涙ハ返ス 怪盗シャッフル』と書かれたメッセージと共に、操舵室の台の上に置いてあったのを船長が見つけたらしい。飯田橋はどういうことだろうと首をひねった。
 高野内は「どうやら、本物の怪盗シャッフルが乗船していたのかもしれませんね」とその存在を匂わせた。――エイラの事だから、例え疑われたとしても、簡単には尻尾を出さないだろうと踏んでいる。唯一の証拠であろう北鳴門の部屋に仕込まれた盗聴器も、とっくに回収済みに違いない。
 警察の調べで、北鳴門の屋敷の裏庭に、二体の遺体が埋められているのが発見されたそうだ。鑑識はこれからだそうだが、おそらく本物の北鳴門妙子と美咲のものと思われる。
 デービッドの事も判った。彼の本名は梅木谷健司(うめきや、けんじ)。ハーフではあるが、岩手生まれの生粋の日本人で、海外には一度も行った事が無いそうだ。当然ながら元軍人というのも全くのデタラメ。ハリウッド映画に憧れていた彼は、アメリカ人として周囲に触れ回っていたようだ。だが、英語は全く喋れないらしく、事件の夜に英語の堪能なスタッフに質問されても、何も答えなかったのはそのせいだった。ずっと無口だったのもボロが出ないようにするためだった。どうやら北鳴門はその事を知らずに雇ったらしい。スポーツジムに通い、体を鍛えていたみたいだが……まあ、どうでもいい話だ。

 名残惜しそうに、さよならの手を振る琴美たちと別れ、高野内は巨大な二つのスーツケースを抱えながら、タクシー乗り場へと向かう。大きな荷物を抱えた人たちの行列の後ろに並ぶふたり。その時、小夜子は琴美から貰ったハンカチで瞳の涙を拭っていた。
「連絡先は交換しているんだから、電話して、また食事にでも誘えばいいじゃないか」高野内は小夜子の肩に手を置きながら慰める。
「忘れたの? 彼女たちの住まいは宮崎県なのよ。おいそれとは会いに行けないわ」
「お前、金持ちなんだろう? 直接会いに行けば良いじゃないか。それくらいケチるなよ」
「お金の問題じゃないわ。……今回の旅行で学校を一週間も休んじゃったでしょう? これでも色々と大変なのよ。志望学部も変えなくちゃいけないし、……あぁ、冬休みもスケジュールが一杯だわ……」
「お前、理学部の推薦が決まっていたんじゃなかったのか、東大の」
「やっぱり医学部を目指すことにしたわ。ちなみに東大といっても東京大学じゃなくて、東海総合大学の方だけどね」
「何だよ、そっちの東大か」
「やっぱり、三流のホームズには一流のワトソンが必要ですからね」
「誰が三流だ。それに、まだ俺に付きまとう気か? いい加減、勘弁してくれよ」
 ふて腐れの高野内は、すっかり肩を下ろし、弥生丸の方を見やった。
 煙突からの煙が風に吹かれ、横にたなびいている。まるで飛び交うカモメたちをダンスに誘っているようにも見えた。
 ようやく吹っ切れたのか、小夜子は元気を取り戻したようで、「そういえば、来月に学園祭があるの。私の作品も展示される予定だから、良かったら遊びに来て」と、三流の探偵を誘った。
「たしかお前、美術部だったな。子供の落書きには興味ないけど、時間があったら行ってやってもいいぜ」
「どうせ暇でしょ? たこ焼きくらい奢ってあげるから、付き合いなさいよ」
「お前は生徒会長なんだから、俺の相手をしている場合じゃないだろう」
「意外とやる事ないのよ。当日は」
「へえ、そんなもんか。生徒会って」
 すると、二人の背後からあの耳障りな声が聞こえた。
「相変わらず仲ええな。熱っつい、熱っつい。ビリケンさんも嫉妬しとりますがな」
 わざとらしく扇子を大仰に仰ぐと、松矢野は口元を歪めながら、どう解釈してよいか判らない微妙な顔を見せていた。
「松矢野さん。旅はどうでしたか?」
「どうもこうもあるかい! エイラの奴、あれから、ちいっとも連絡が取れへんようになってな。偶然見かけて声を掛けても知らんぷり。せっかくの船旅も台無しや」
 恐らくそうだろう。エイラとしては、この男を利用しただけなのだから。いい気味である。
「そやかて、エイラがつれないのは、わしの気を引くためにワザとそうしてるんやと睨んどる」
 どこまでも前向きな男だ。小夜子は、もう知らないといった呆れ顔で、両方の手のひらを宙に向けながらそっぽを向いた。
「そうかもしれませんね。あなたほどのプレイボーイなら、エイラさんなんかよりも、もっとナイスなギャルがわんさか近寄ってきますよ」口に出しながらも、吐き気を抑えるのに必死だ。
「まあええ。あんたの言う通り、次を探しますわ。小銭も入った事やし、高野内はんも今度一緒に飲みに行きまへんか?」
 小銭が入ったと言う事は、飯田橋から口止め料を強請り取ったに違いない。
「エアコンの姉ちゃんも、一緒にどうや?」
 タクシーがちょうどふたりの順番になり、助け舟とばかりに乗り込んだ。尤も、船は今しがた降りたばかりだったが。

 ふたりを乗せたタクシーは横浜港を離れ、国道へ向かう。
 振り返ると、大海原から帰港し、一旦役目を終えてしばしの眠りについた奇岩城は、窓ガラス越しにその荘厳な佇まいを徐々に縮小させていった。
「今回の船旅は災難続きだったな」高野内はポツリとこぼした。
「そうね……でも今回は、エキサイティングな体験が出来たから、私は満足だわ。琴美ちゃんとも知り合えたし」
「上手い料理もたらふく食べたし。暇つぶしとして名推理も炸裂したところだしな」
「またそんな事言って。名推理と言いながらダイヤは戻って来たんでしょう? やっぱり怪盗シャッフルはあの船にいたんじゃない。もう二度と名探偵を名乗らない方がいいわよ、せ・ん・せ・い」
 結局、小夜子には大野城エイラの正体を話していない。打ち明けたところで、何も意味が無いと判断したためだ。
「ああ、俺のミスは認めるよ。いい推理だと思ったんだが、詰めが甘かったな」
「でも、どうしてシャッフルは、せっかく盗んだダイヤをわざわざ返したのかしら?」
「さあな。たぶん気が変わったんだろう。まさか殺人が起こるとは思わなかっただろうし、もし、殺人もシャッフルのせいにされたら、彼女のプライドが許さなかったんじゃないかな」
 だが、高野内は確信している。見つかったクレオパトラの涙は、彼女の用意したイミテーションの方であることを。もし、このままダイヤが出てこなかったら、警察はやはり船内にあると確信し、退船する乗客は徹底的に調べられる。いくらエイラといえども、船外に持ち出すのはかなりの困難に違いない。しかし、ダイヤが返されたとあれば、もう退船の際に荷物を調べられることは無い。やがて偽物だと鑑定される頃には、エイラは悠々と姿をくらましているだろう。
「彼女のプライドって、どうしてシャッフルが女だと思うの?」
失言したことに気が付いた高野内は、「それは……何となくそう思っただけで……探偵の感というか……」と、支離滅裂な言い訳をする。
「何よ、根拠ないじゃん。――そういえば、結局、誰が怪盗シャッフルだったんだろう? やっぱり乗客の中にいたのかな。まさか松矢野のオヤジだったりして」
「だったら傑作だな。今からでも内容を変更するように頼んでみようか? 想像力の足りないこの小説の作者に」
「? あなた、時々、意味が判らない事を言うのね」
「ところで、報酬の件は考えてくれたか?」
「ええ。四か月分といわずに、滞っていた家賃を全てチャラにするよう、パパに頼んでみるわ」
本当(まじ)かよ? やっほう! これで久しぶりに牛丼の大盛が食べられるぜ。霧ヶ峰はん、おおきに!」
「……やっぱり止めようかしら」
 気が付けば、高野内はあるロック歌手の曲を口ずさんでいた。小夜子はこの一週間を振り返るように窓の外をしんみりと眺めている。

 タクシーは、澄み渡る青空の元へ、ゆっくりと消えていく。彼らの間に会話は無かった。

 ふたりを祝福するように、あの汽笛が聞こえた……ような気がした……。
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