第2話

文字数 6,277文字

 話が終わると、高野内と小夜子は、北鳴門の部屋に案内されることになった。明日の打ち合わせをするためだ。
 エレベーターに向かう途中で、高野内は小夜子にこっそりと耳打ちをする。
「ウェルカムシャンパンって何のことだ? フルーツの盛り合わせもウチの部屋にはなかったぞ」
 小夜子も小声で返す。「おそらく北鳴門さんは、スイートに泊っているのよ。そういうハイランクの部屋にはサービスがいろいろ付くの。私たちはD号だから、そういうのは無しよ」
「ちぇっ、俺たちは歓迎されてないってことか。貧乏人だからって差別しやがって」
「区別よ。それなりに高い料金払っているんだから、それ位のサービスは当然よ。ひがまないで下さい、せ・ん・せ・い」
「からかうのはやめろ、バカ!」たまらず怒鳴り声を上げる高野内。
 その声が聞こえたのか、先を歩く北鳴門が首だけを振り返り声を掛けた。
「どうかされましたか?」
「いえ、別に。これからの警備方針について、こいつとふたりで協議していました」
 冷や汗を感じながらも、なんとか誤魔化した。
 エレベーターに乗り込んでしばらくすると、最上階と思われるフロアに到着した。
「さあ着きましたよ。この階です」
 到着のベルが鳴り、エレベーターを降りる。他の階よりも広々としたエレベーターホールに出ると正面の壁に半畳程の油絵が飾ってあった。その右隣には非常階段と書かれた鉄製の扉が見える。そこには『締切中。非常時には自動的に開錠します』と書かれたプレートが下げられていた。おそらく一般の乗客が、容易に入れないようにしてあるのだろう。北鳴門の聞いた話では、ここはスイートルーム専用のフロアとなっていて、スイート以外の乗客は基本的に立ち入れない規則になっているそうだ。つまり、小夜子の読み通り、北鳴門はスイートルームの客だったのである。
 船尾に向かって伸びる通路をしばらく歩き、角を曲がると、ちょっとした広場に出た。ひときわ高い天井からはシャンデリアがぶら下がっていて、中央には円形のフラワーガーデンがあった。甘い香りが広がり、パステルカラーの花々が咲き誇っていて、整然と並べられている。周りには洋風のオシャレな木製のベンチが置かれ、ちょっとした癒しの空間を演出していた。
 広場を通り過ぎたところにある廊下に入ると、通路の両脇に二つずつ、合計四つの扉が見える。北鳴門は左手前の扉の前で立ち止まると、そのドアには『S―01』と書かれたプレートが貼ってあった。高野内たちのD号とは、ドアの作りからして全く違う。さすがはスイート。入る前から高級感が漂っていた。
 北鳴門はチャイムを鳴らすと、数秒も経たないうちに中から初老の男性が現れた。男は白のワイシャツに黒のズボン、髪は短髪で、線のような細い目をしている。顔のシワからみて年齢は六十を越えているだろうと思えた。
「お帰りなさいませ、社長」その丁寧な言葉遣いに、彼の部下であることを伺わせる。促されるまま足を踏み入れると、高野内は息をのまずにはいられない。エントランスだけで高野内の探偵事務所ひと部屋分ものスペースがあり、飾り棚には豪華な花が飾られている。ここは本当に船の中なのだろうかとさえ思えるほどだ。
 北鳴門の案内で幅のある廊下を進む。途中にトイレがあり、それを抜けるとオーシャンビューのリビングに出た。そこはテレビでしか見たこと事のないような高級ホテルのそれと同等、もしくは、それ以上の広さとゴージャスさで、圧倒されながら口を半開きにした。小夜子はというと、「まあこんな物でしょう」とでも言いたげな顔で室内を見渡している。
 北鳴門が声を掛けると、さっき彼らを出迎えた男が姿を現した。しっかりと両手でトレイを抱え、その上にはコーヒーが三つ並び、芳醇な香りを漂わせている。北鳴門は男の肩を叩きながら、「彼は私の部下だ。仕事のスケジュールから今回の旅の世話まで、すべて彼に任せている。私の最も信頼している幹部の一人でもある」と高野内たちに紹介した。
 部下の手前なのか、北鳴門の口調はさっきまでとはだいぶ異なり、ぶっきらぼうな言葉使いになっている。それが本来の彼の姿なのかもしれない。
 寺山田は丁寧にお辞儀をすると、立ち昇るコーヒーの湯気の中から、簡単な自己紹介を始めた。
「わたくしは寺山田孝介(こうすけ)と申します。北鳴門社長の秘書をやらせてもらっております。御用がありましたら、何なりとお申し付け下さいますよう、お願い申し上げます」その声は意外にも青年のような若々しい印象だった。
 三人はソファーに腰を下ろし、寺山田がテーブルにコーヒーを並べると、北鳴門は下がれと手で合図を送った。彼はもう一度お辞儀をして、「失礼します」と、廊下の奥へ消えた。
「彼とは別に、もう一人、デービッドという部下がいるが、今は私の妻と娘を連れて食事に出ている。――いずれまた紹介しよう」
「そういえば奥さんと娘さん、お名前はなんとおっしゃるのですか?」
「妻の名はたえこ、妙な子供と書いて妙子だ。会えばわかると思うが、本当に奇妙なところがある女だよ。……娘の方はみさきだ。美しく咲くと書いて美咲。先月八歳になったばかりで可愛い盛りだよ」
 みさき?
 高野内は、昨日、波止場で出会った女の子を思い出した。確かあの子も“みさき”と言っていた。もしかすると、あの母娘は北鳴門の奥さんと娘さんなのかもしれない。
 小夜子の方に顔を向けると、やはり彼女も同じ事を思ったらしく、目でそう伝えてきた。
 少し待ってくれと言葉を残し、北鳴門は奥の扉に消える。
 リビングの外の真っ青な空と、穏やかな海を眺めながら、香り立つコーヒーにゆっくりと口をつけたところで彼が戻ってきた。手には、三十センチ四方のジュラルミンと思しきケースを携えている。
「これは、もしかして……」
「ああ、例のアレだ」
 神妙な面持ちで、北鳴門はソファーに腰を下ろすと、テーブルにケースを横向きに寝かせて置き、パチンと金具を弾く。それからゆっくりと慎重に開け、百八十度回転させながら、高野内たちに中身を見せた。
「わあ……」
 瞬間、小夜子は感嘆の声を上げた。青色のクッション材の上に、四センチほどもある見事なダイヤモンドが輝いていた。
『クレオパトラの涙』。その名の示す通り、先の尖った滴の形をしていて、全てを飲み込むほど妖艶な光を放っている。宝石に全く興味のない高野内でさえも、息を呑むほどの美しさを感じていた。その形状から、なんとなく涙というよりも天津甘栗の方に似ているなと思ったが、その思考のあまりの貧困さに嫌気がさし、頭を振った。さすがの小夜子もまた、魂を抜かれたような顔で完全に動きが止まっている。
「七十二カラットある。正式名称は『ティアーズ・オブ・ラストクィーン』。ボツワナのカロウェ鉱山から二〇○九年に発掘され、時価総額は五億円にもなると言われている」
「五億円!? 私にはとても想像できない金額です」面食らった高野内は、思わず額に手を当てた。
 それを見た北鳴門は頷きながら言った。
「もちろん保険はかけてあるが、もし盗まれでもしたら、信用を大きく失うことになりかねない。今後のビジネスに与える影響も少なくないだろう」
「いや、本当に素晴らしいですね。怪盗シャッフルが狙うのも判る気がします……おっと、今のは失言でしたね」高野内は思わず手で口をふさいだ。
「大丈夫だ。私も長年宝石商を行ってきたが、これほどのダイヤは見たことがない。正にこの国の、いや、人類の宝ですな」
「ちょっとだけ触ってもいいですか」遠慮しながらも大胆な事を言う小夜子。
 あまりにぶしつけなお願いにも、北鳴門は嫌な顔ひとつせず、小夜子に手袋を渡した。
「ええ、どうぞ手に取ってご覧ください。こんな機会は、滅多にあるものでは無いでしょうからね。……ひょっとしたら、将来のお客様になるかもしれませんし」
 急に北鳴門が丁寧な口調になった。小夜子の振る舞いから、実家が資産家である事を察したのか、それとも定番の口上なのか、高野内には読み取れなかった。
「……きれい……」
 口をぽっかりと開け、天井の照明に透かしながら、心を奪われたようにうっとりとダイヤに見とれる小夜子。彼女も本当に女なのだなと改めて認識した。
「先生も……失礼、高野内さんも手に取ってご覧になってください」
 手袋を差し出す北鳴門に、とんでもないと両手を振り、申し出を断った。それは探偵だから手袋は常備しています、という意味ではない。
「普段はどこに仕舞われているのですか?」小夜子は、名残惜しそうにダイヤをケースに戻しながら疑問を投げかける。
「寝室の備え付けの金庫だ」
 口調が元に戻る。
 北鳴門がルーペでそのダイヤの真贋を確かめると、安堵のため息をつきケースを閉じた。
「いや、誤解しないでくれ。これはクセのようなもので、つい確認せずにはいられないんだよ」北鳴門はケースを持ちながら立ち上がる。「では、金庫に入れてくる。くれぐれも変な気は起こさないでくれよ」
 北鳴門は小さく笑いながら、さっきの扉に戻る。恐らく、その部屋が彼の言っていた保管場所である寝室なのだろう。高野内はカップに残ったコーヒーを全て飲み干すと、小夜子に小声で話しかけた。
「今の話、どう思う?」
「正直、不用心だと思うわ。人類の宝とまで評したお宝にしては、あまりに軽々しく扱っている印象ね」
 高野内も小夜子と同じ考えだ。警察や船側に連絡しないのも、ひょっとしたら、それが関係しているのだろう。
「まさか、あのダイヤが偽物って事は無いよな」
「その可能性は無いと思う。本物のダイヤをいくつか持っているから判るけど、あれが偽物で無い事は私が保証するわ」
 小夜子がそう言うのだから、間違いは無いだろう。高野内の脳裏に暴力団の組長と闇取引をする北鳴門の姿が浮かんだ。もしかすると、この船に取引相手の仲間が乗り込んでいて、北鳴門の動きを監視しているのかもしれない。これで、もし、ダイヤが盗まれでもしたら、はたしてどんな目に合わされるのだろうか――。そう心に描くと震えが止まらない高野内だった。
「ところで高野内くんは、これまでどのような事件を解決してきたんだ?」
 戻ってきた北鳴門は、微笑を浮かべながら訊いてきた。高野内は声がハツラツとなり、待ってましたとばかりに語り出す。
「二年前の南金山の山荘での殺人事件はご存知ですか? あれは私が最も苦労した……いや苦難と言うべきかな。そんな難事件でした。――完全なる密室で、ある富豪が非業の死を遂げました。迷宮入りかと思われたこの事件を、華麗なる推理によって真実を解き明かしたのです。――それからこれはオフレコでお願いしますが、半年前の蒼ノ衣(あおのい)島の連続殺人事件も、実は私が解決しました……他にも立山の誘拐事件や奥村瀬の強盗傷害事件、広瀬のビル爆破事件や財前村のコンビニ万引き未遂事件など……」
 実際には最初の二件しか携わっていない。しかも、どちらも偶然で解決したようなもので、決して推理が冴えていた訳ではなかったのだが……。
 取り留めのない探偵談義が続くと、北鳴門は欠伸を噛み殺しながら、コーヒーをすすった。「ほほう、それはすごいですな」
 満足げな顔で、ソファーに大の字でふんぞり返らんとする高野内に、小夜子はハイヒールのかかとの先で、彼の左足を思い切り踏みつけた。
「あいた。何するんだ」慌てて靴を脱ぎ、靴下の上から足の甲を必死でさする高野内。
「あら、ごめんなさい。さっきのダイヤに少し酔ってしまったのかも」手の甲をあごの下に添え、凛とした声で小夜子は平然と言いのけた。
「南金山の事件だったら私も聞いている。たしか高野内くんが、あえて道化役を演じて事件を解決されたとか」
 高野内は頭を掻きながら、急にドギマギする。
「そこまでご存知とは。いやあ照れますな」
 照れるというよりは、あの事件における自分の失態を、どこまで北鳴門が知っているのか、気を揉む高野内だった。
「ところで明日の件ですが。具体的にはどのようなプランをお考えですか」
 高野内はテーブルに両肘を乗せ、手の平を組むと、改めて北鳴門の顔を見据えた。
「その事だが、私は寝室に一人で籠ってダイヤを守ろうと思う。妻の妙子と娘の美咲はもう一つ別の寝室に避難させ、寺山田とデービッドにはリビングに待機させておくつもりだ。――あ、デービットとはさっき話したもう一人の部下で、私たちのボディーガードだ。元軍人だけあって腕っぷしの方は、かなりのものだよ」北鳴門は鼻を膨らませた。
 さっと右手を上げて、「差し出がましいようですが、部下のお二人にだけでも、ダイヤと予告状の事をお話になってはいかがですか?」と苦言を呈した。
 顔を歪ませながら腕を組むと、北鳴門はしばらく目を閉じてから、ポンと膝を打った。
「そうだな――よし判った。その方が警備をしやすいだろうしね。後で私から話しておくことにしよう」
「お願いします。それで私たちは?」と、高野内は今後の動向を探る。
「申し訳ないが、表の広場で不審者が来ないか監視して欲しい。もちろん君たちを信用していないわけでは無いが、部屋の中は我々に任せてくれないか」
 高野内は内心ほっとした。これでもしダイヤが盗まれた時、部屋の中にいたのでは自分たちが容疑者にされてしまう。高野内にしてみれば、怪盗シャッフルを捕らえてやるといった気構えは無い。むしろ、どうやったら自分に容疑が掛からないかを考える、やたら消極的な思考といえる。これで名探偵を名乗っているのだから……。
「分かりました。表の警備はお任せください。ネズミ一匹見逃しません」
「それは心強い。高野内くんがいれば百人力ですな」
 お世辞だとわかってはいるが、それでも高野内は本気で赤くなるのを感じた。
「ところで君たちのお部屋はどちらで? やっぱり同じスイートですか」
 北鳴門は、イヤミとも本気とも取れる口調で投げかけてきた。高野内はなんと返事して良いやら戸惑っていると……。
「D号です!」小夜子はきっぱりと言い放つ。
「Dですか……」
 北鳴門は眉をしかめて怪訝そうな目を向ける。高野内は落ち着きのない口調で言葉を絞り出す。
「……ええ、私らも本来はスイートにする予定でしたが、なにぶんスケジュールの都合上、急遽決まった事なので、そこしか空いていなかったのですよ」
 まさか商店街の福引きで当たったとも言えない。
「あれ? 確かこの部屋の正面のS-03は空室だったような……」
 まさかの空室の出現に、慌てて言い訳をかました。
「……それはたぶん、私たちが予約を入れてから急にキャンセルにでもなったのでしょう」
「良ければ今からでも移れるように手配させようか?」
「いえ、それには及びません。D号の部屋も、あれで意外と快適なんです。たまには庶民の暮らしを体験するのも悪くありませんよ……それに今更、船員たちを煩わせることもないでしょうし」顔を引きつらせながら必死で取り繕う。冷や汗が止まらなかった。
「そうでしたか。だったら仕方ない。……しかし高野内くんほどの方なら、D号はなにかと手狭だろう。この件が無事終了した暁には、気軽に遊びに来てくれ。その時は妻と娘も紹介する。ウェルカムシャンパンを用意してお待ちしているよ」
「ええ、是非そうさせていただきます」高野内は会釈すると、しばらく明日の計画と他愛のない雑談を交わす。
 そして、お代わりで出された上質のレモンティーを飲み終えたところで、その部屋を後にした。
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