第1話

文字数 2,185文字

十月十五日。旅行五日目。

 翌朝、ふたりは昼過ぎに起きた。昨日までの嵐が嘘のように空は晴れ渡り、太陽が十月の寒空を温めている……筈だと思うが、この部屋からは屋外の様子が伺えず、窓から覗く廊下は二十四時間変わらぬ光景だった。
 琴美と指切りをしたので、様子を伺うついでに鈴香の部屋に電話を入れた。だが、まだ気持ちが落ち着かないとの事だったので、明日改めて食事会を開く約束となった。
だ 着替えを済ませて部屋を出る。この日、アラームが鳴らなかったのは、寝る前にきっちりと止めていたからだった。
 以前から気になっていた、かっぱ寿司専門店で昼食を終えると、高野内の服装を見かねた小夜子の提案で洋服店に立ち寄る。小夜子の見立てで、新しい紺色のスーツやネクタイと靴も一緒に見繕ってもらい、もちろん彼女の支払いで購入した。
 それから楽しみにしていたという釣り堀に向かう。

 エレベーターを降りて、釣り堀のあるフロアに到着すると、そこは想像していたものより遥かに大規模なつくりだった。船の中とは思えない程の巨大なプール状の釣り堀に近づいてみると、大量の魚たちが元気よく泳ぎまわっている。周りには、子供から年配の人まで、たくさんの人が釣り糸を垂らしていて、時々、歓声があがっていた。奥の方には縁日でよく見るような出店が軒を連ね、たこ焼きやジュースなどの看板が見える。店の前には簡単なテーブルがニ十席ほど並んでいて、既に半分以上が埋まっていた。釣り堀といえば、こじんまりとした田舎のそれを想像していただけに、驚きもひとしおだ。
 
「凄い規模だな。船の中の釣り堀って聞いた時は、せいぜい公園の溜池くらいの大きさだと思ったけど、これじゃ、まるでサッカーコートだ」
「でしょ? さすがにサッカーコートよりは小さいけど、あなたの潰れかけの事務所よりはかなり広いわね」
「潰れかけは余計だろ」
「パパとしては、あなたに早く事務所を畳んでもらって、ちゃんと家賃を払ってくれる人を入れたいみたいだけど」
「それを言われると正直、キツいな」高野内は思わず頭を掻いた。
 ふたりは受付で釣り具を借り、空いているスペースを見つけて腰を下ろす。高野内は慣れない手つきで餌を針に付けて釣り竿を振り下ろした。
「そういえばクレオパトラの涙って、もう見つかったのかしら」
「どうだろうな。飯田橋の話によると、警察は携帯会社に協力してもらい、躍起になって捜索しているみたいだけど、さすがに昨日の今日じゃ、まだまだ時間がかかるんじゃないかな」
「あーあ。せめてもう一度見たかったな」
「親父さんに買ってもらえばいいじゃないか。お前の家は金持ちなんだろう?」
「さすがに五億は無理よ。あなたの年収の八百倍ってところかしら」
「八百倍ってことは……」指を折って数えてみると、「見くびるな! もうちょっとはあるぜ」隣の小夜子を肘で小突く。彼女はそれでもひるまない。
「もうちょっと稼がないと、嫁の来てが無いわよ」
「いいんだよ、一生独身でも……お前こそ、もう少しその減らず口を治さないと、嫁の貰い手がないだろ」
「いいのよ。私は引く手あまただから」
「その自慢は耳にタコができるくらい聞いたよ」そこで、わざとらしく堀の中に目を向ける。「そういえば、ここにタコはいないのか?」
 高野内は手をかざしながら釣り堀を覗き込んだ。
「いる訳ないでしょう。墨を吐いたら水が汚れちゃうじゃない」
「そうだよな。タコはもういるからこれ以上要らないか」
「どういう意味よ」
 不毛な会話を楽しむふたり。周りはこのコンビの事をどんな目で見ているのだろうか。
「そういえば、釣り上げた魚はどうするんだ? キャッチ&リリースか」
「リリースしてもいいけど、あそこの店で焼いてくれるみたいよ」
 小夜子が指をさすと、出店の看板にそれらしきものが見えた。
「あ、見て! 噂をすると、よ」
 視線を移すと、小夜子の釣り糸が激しく動きまわり、ウキが水面を上下している。
「早く玉網を」
「ああ、タモさんか」
 高野内は捕獲用の玉網を掴むと、暴れる水面に突き入れ、獲物をすくい上げる。小夜子が興奮して「やった!」と大声を上げた。
 プールサイド(?)に引き上げられた三十センチほどの赤い魚は、網の中で必死にもがいている。
「ずいぶん大物だな。マグロか? カジキか? カジキマグロか?」
「そんな大型の魚なんて、釣り堀にいる訳ないじゃない。これはたぶん甘鯛よ」
「甘鯛? 甘いのか? 『あ、真鯛』なのか?」高野内は真顔で言った。
「いい? 甘鯛と言うのはスズキ目キツネアマダイ科アマダイ属の総称で……」
「ウキペディアはもういい」
 苦戦しながらも甘鯛から釣り針を外し、海水の入ったバケツに入れる。――と、高野内は何かを閃いたのか、その目を見開き、そして宙を仰いだ。
「さあ、まだまだ釣るわよ。夕食はこれになるかもね。今夜は焼き魚三昧よ、あなたも頑張り……って、何ボーっとしているの?」
 すると高野内は体をエレベーターの方に向けると、大股で歩き出した。
「ちょっと、どこに行くのよ。――もしかしてトイレ?」
 だが、高野内の返事は違った。
「悪い! もう一つ、パズルが残っていた」振り向きざまに、そう言い残すと、そのままエレベーターホールに向かった。
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