第2話 完結

文字数 3,611文字

 角を曲がったところにある電信柱の影で立ち止まり、おもむろに携帯を取り出すと、飯田橋に掛けてみた。小夜子を置いてきたのは、会話を聞かれたくなかったからだ。
 ツーツーと呼び出し音が十回ほど続き、やはり仕事中なのかと諦めかけていたところで、ようやく彼の声に切り替わった。
『よう。この前は世話になったな。あれから調子はどうだい? また弥生丸に乗船してくれよな』ずいぶんとご機嫌のようだ。
 無理もない。あの解決劇の立役者は高野内ではなく、彼ということになっているのだから。
「ところで、この間の事件の事なんですけれど……」
 高野内は警察から聞いたであろう、事件の詳細について問いただした。特に北鳴門の死体の司法解剖の結果を重点的に。飯田橋は、ここだけの話だと念を押したうえで――。
『……鑑識によると、北鳴門氏の死亡推定時刻は、十月十三日の午後十時半前後とされたらしい。つまり、君たちが広場に着いた時には、既に殺されていたことになる。それから北鳴門氏はうつ伏せの状態で、下から刺されたようだ。警察の見立てでは、デービッド……いや梅木谷健司が北鳴門氏を襲おうとしたところを逆に反撃され、ベッドに仰向けにされたところに、北鳴門氏が覆いかぶさった。おそらく、首を絞めようとしたのだろう。だが、そこでナイフを取り出して、下から突き上げた。実際、梅木谷もそう証言したらしい。――それがどうかしたのか?』
 何でもないと答えを濁すと、飯田橋はさらに続けた。
『それから、北鳴門の自宅の裏庭から発見された、北鳴門妙子と美咲の死体の事だが、死因は共に扼殺によるもので、指紋や手の跡が、奴のものとピッタリ一致したそうだ。それに、娘の方は養子だったらしく、血がつながっていなかった。――ここだけの話だが、美咲には強姦された跡があったそうだ。殺された原因もそこら辺と見て、まず間違いない。――恐ろしいよな。養子とはいえ、あんなに幼い子どもをレイプするなって。――私にも娘がいるが、とてもそんな気になんて、なれるわけがないな……奴の気が知れないよ』
 それから互いに近況を語り合い通話を切った。
高野内はフィリップモリスを銜えようとポケットをまさぐるが、どうやら事務所に忘れてきたらしく、どこにも見当たらなかった。
 そのまま戻るのも何だかもどかしく、フラフラと街を歩く。

 ふと、視界の先に一軒の小料理屋が目に付いた。古ぼけた佇まいで、これまで幾度となく前を通りかかっているはずなのだが、こんなところに小料理屋があるなんて、初めて気づかされた。暖簾はまだ出ていないが、思い切ってその扉を開ける。まだ準備中らしく、女将さんが一人で料理を仕込んでいた。
「失礼。また、出直してきます」そう言って踵を返そうとするが、女将は、どうぞと席を勧めてきた。せっかくだから断るのもなんだと思い、取り敢えずカウンターに腰を据えると、ビールと枝豆を注文した。
「お客さん、この店は初めて?」女将は割烹着姿で、白髪の混じった髪を後ろで束ねている。一見、五十代半ばのような印象だが、どことなく幸の薄い雰囲気があり、実際はもっと若いのかもしれない。
「ええ、近くに住んでいるんだけど、普段はバーやクラブばかりしか行かないからね」
 本当はそんな贅沢なんて出来る訳もなく、ほとんど事務所兼自宅で、安酒ばかりを飲んでいた。
「だと思ったわ。お客さんってどこか上品な雰囲気がしているもの」
 さすがに口が上手い。今まで、そんな事など一度も言われたことは無かった。
「はいどうぞ。これはサービスよ。これからもよろしくね」女将はすっと肉じゃがをカウンターに置いた。
「ここは、いつからやってるの?」
「そうねえ。――娘を嫁に出してからだから、かれこれ十年以上にはなるかしら?」
「娘さんがいるんですね……なあ、女将さん。もし、あんたの娘さんが、殺人を犯したとしたらどうする?」
 初対面の人に対して、いきなりどぎつい質問をかます。我ながら馴れ馴れし過ぎると思わずにはいられない。
「どうしてそんな事訊くのか、わからないけど、野暮な質問なんてするもんじゃないわ。――そりゃ、どんな理由かにもよるかもしれないけれど、代われるものなら代わってあげたいと思うのが、人情ってもんさ」
 きっと鈴香も同じ心境だったに違いない。彼女としては、たとえ故意でなかったとしても、琴美が人を殺したとすれば、庇ったり、もみ消したりするのが親の愛というものだ。
 やがて、ビールから焼酎のお湯割りに変わり、「そういえば、松矢野は日本酒か焼酎しか飲まないんだっけ」と、独り言をつぶやいた。
 グラスを傾けながら、ぼんやりとあの夜の事を想像した。
 きっとあの夜はこんなことがあったに違いない。
 あの晩、事件のあった時、琴美は鈴香と一緒にあの部屋にいたのだ。
北鳴門は琴美を見ているうちに悪い癖が出て、手を出したくなった。そこで北鳴門は鈴香にワインを買いに行かせた。もちろん小夜子に目撃される意味合いもあっただろうが、おそらくその隙に事に及ぼうとしたのだろう。北鳴門は琴美を寝室に呼び、ベッドに寝かせた。きっと遊んであげるとでもほのめかしたのだろう。琴美は、これから自分が何をされるのかを薄々感じていたはず。逃げようとしても、力の差は歴然であり、子どもが叶う相手ではなかった。
 そこで北鳴門の隙をつき、防犯グッズの入った袋の中に手を入れて、登山ナイフを掴み取る。そして、仰向けのまま背中に忍ばせた。――何も知らない北鳴門は、琴美に襲い掛かり、彼女が構えていたナイフの上からかぶさってしまい、勢い余って、胸に刺さってしまった。
やがて戻ってきた鈴香は、茫然自失となった琴美やナイフの刺さった北鳴門を見て、全てを悟った。ドレスが捨てられたのは、その時、血まみれになったのに他ならない。きっと寺山田やデービッドも同情し、計画の全てを打ち明けたのだろう。
 当初は北鳴門の殺害も怪盗シャッフルの仕業に見せかけようとしたが、いずれ真実が暴かれてしまうかもしれないと不安に駆られたはず。当初のプランでは、こんな事態は想定していなかったからだ。それを案じた三人は保険を掛けることにした。つまり、いざとなったら寺山田とデービッドが罪を被ると申し出たに違いない。ワザと矛盾がある証言をし、琴美に目を向かせないように仕向けたのも、そのためだろう。――だとすれば、彼ら三人の罠にまんまとはめられたことになる。
「もう一杯いかがですか?」
 気が付けは、グラスは既に空になっていた。そこでお代わりを貰うと、おかみの自慢と称するカレイの煮つけを追加した。
 そこで高野内は、ある疑問が浮かんだ。もし、そうだとすると、大野城エイラは北鳴門が殺される前にクレオパトラの涙を入手していたことになる。時間的には高野内たちが広場に待機する三十分も前だ。だとすれば、エイラはその時部屋にいたはず――。
 何故、わざわざ玉網を買いに行ったのだろうか? 

まさか――!
 
 すっかり出来上がった高野内は、会計を済ませる、よろよろと事務所へ足を向ける。

 ドアを開けると中は真っ暗になっている。既に小夜子は帰宅したようだった。
 そのままフィリップモリスを掴み取ると、その煙を吸い込む。しばらく堪能してからソファーに倒れ込むと、まぶたを閉じて、完成したもう一つのパズルを俯瞰しながら、途方に暮れた。
 思えば、あの晩、エイラはワザと玉網をちらつかせたのだろう。それは、高野内たちを挑発するためだったに違いない。もしかしたらダイヤを盗んだのも、彼女の仲間たちの仕業で、エイラは本当に松矢野に絡まれていたのかもしれない。彼女は仲間から連絡を受けて、琴美の犯行を知り、必要のない玉網をもう一本買い直した。――そして敢えて高野内たちの前に姿を見せた。きっとトリックを匂わせるような危険を冒してまで、琴美から目を逸らせたかったのだろう。彼女の奇特な心情には、感服せざるを得ない。結局、最後までエイラの術中にはまっていたのだ。
 ――きっと琴美は、その時の記憶がないのかもしれない。事件の後、中華料理屋で三日ぶりに会った時は、何事もなかったかのように無邪気な笑顔を浮かべていた。しかし、同時に、どこか物憂げな様子を感じたのも事実である。きっとどこかで、自分の犯した罪を認めていたのかもしれない。
 もし、小夜子が同じ目に合ったら、自分も鈴香と同じ事をしただろうことは、想像に難くない。例え正当防衛で人を殺めたのだとしても――。
 もちろん全て仮の話に過ぎない。いくら妄想したところで、何の証拠もないわけだし、今さら蒸し返す気もなかった。

 陰鬱な空気の中、不意にカーテンを開き、窓の外を眺めた。
そこには弥生丸で見た時と同じような星空が瞬いていた……。
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