第5話

文字数 953文字

 彼と会ったのは、エレベーターから降りて、スタッフ専用の少し錆びついた階段を昇った時だった。
 見慣れた巨体と聞き慣れた関西弁が、ただでさえ憂鬱な二人を奈落の底に突き落とす。
「なんや、高野内はんと霧ヶ峰の姉ちゃんやないかい。こないなところで会うとは奇遇やな。――それにしても、今日は警察官を引き連れてからに。あんた、なんぼ悪い事でもしたんかいな?」
 小夜子は、もはや訂正する気も無いらしい。
「この人は警察官じゃなくて、この船の警備員です。ちょっと事情がありまして、事務所に向かっています」
「そうでっか。まあ、事情は訊かないでおきますわ。……せやかて、何があったか知らんが、あんたらも大変やの」
 松矢野は今日も扇子をパタつかせている。もはや体の一部と化しているようだ。
「ところで、松矢野さんはどうしてここに? ここはスタッフ専用の通路ですから、一般客は入れない筈ですが」
 それとなく探りを入れてみたが、彼は平然としていて、悪びれる様子はない。
「散歩や散歩。朝食がてら、ぶらりと散歩しておったら、いつの間にか、ここに来ておったんや」
「そうでしたか。それなら注意される前に、早く立ち去った方がいいと思いますよ」
「そやな。そちらの警備員さんも怖い目で見ておるようやし、とっとと退散せなアカンな……ところで高野内はん、今度飲みに行かへんか。えらい儲け話が見つかったさかい、わしが奢りまっせ。――せやけど、わしは日本酒か焼酎しか飲めへんから、居酒屋オンリーやけどな」
「ええ、是非ともお願いします」もちろんその気はない。例え、奢りだろうとも、こいつと飲みに行くくらいならば、小夜子の小言に付き合っていた方がまだマシだ。「そういえば、昨日お会いした時に、飯田橋さんには気をつけろとおっしゃっていましたよね。あれはどういう意味だったんですか?」
「はて? わし、そないなこと言うたかいな? さっぱり覚えとらんわ」明らかにすっとぼけていたが、ここで口論しても始まらない。
「そうですか。では急ぎますので、この辺で失礼します」
「そうか。ほな、さいならや」
 松矢野は扇子を振りふり、悠々と階段を降りていった。ここはスタッフ専用通路。たまたま訪れるような場所ではない。
 本当にただの散歩だったのだろうか?
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