第1話

文字数 3,712文字

 ホールの中央にそびえ建つ、ロココ様式の大時計に目を向けると、時刻は二時五分前だった。
 お腹が鳴り、朝から何も食べていないことに気が付くと、ふたりは、レストラン街に戻ることにした。
 散々迷った挙句、今宵の警備に向けて精をつけるためにと、ステーキレストランに入ることに決める。
 店の前から香ばしい匂いが漂ってくると、ふたりとも、にんまりと情けない顔になり、高野内は漏れ出るよだれを手の甲で拭いた。
 席に着くや否やメニューをめくると、互いに五百グラムもある特製サーロインステーキセットを注文した。
 焼かれた鉄板の上で湯気が踊る肉厚のステーキが目の前に運ばれてくると、ふたりは他の客がいるのも忘れ、エサにありついた腹ペコの野良犬のように、肉汁のしたたるそれに思いっきりかぶりつく。
「おい、女のクセにみっともない食べ方だな。いつもみたいに、もっと上品に食べろよ」
「あなたこそ、もっと静かに食べられないの? みんな、あなたを見ているじゃない。恥ずかしいったらありゃしないわ」
「俺じゃなくて、お前を見ているんだ。恥ずかしいのはこっちの方だぜ」
 どっちもどっちだ、と思われているのかどうかは判らないが、ふたりのテーブルに客や店員たちの注目を集めているのは明らかだった。
 ステーキ皿が空になり、食後のコーヒーを堪能するのも束の間、小夜子はなにかを思い立ったかのように腰を上げると、爪楊枝をくわえながらゲップをする高野内の腕を掴んだ。
「ねえ、美咲ちゃんたち、ちょっと心配じゃない。――北鳴門さんは、ああいったかもしれないけれど、やっぱり彼女は不安だと思うの」
 すると高野内も勢いよく立ち上がると、北鳴門の部屋に電話を入れた。女性の声が聞こえ、それが妙子夫人だと判り、今から行きます、とアポイントを取った。それからふたりは、足早に北鳴門の部屋へと向かう。

 エレベーターを降り、広場を抜けて北鳴門のスイートルームのドアの前に着くと、間髪入れずにチャイムを鳴らす。事前に電話を入れていたせいもあり、今度は寺山田ではなく、妙子夫人が出迎えてくれた。リビングに通されると、そこには北鳴門が待っていた。見廻してみたが、どこにも美咲の姿は無い。北鳴門は夫人に目配せをして、仕事が溜まっている事を理由に奥の寝室へと入っていった。
 三人がソファーに腰かけると、寺山田がミントの香りのするハーブティーをテーブルに置いた後、すぐにリビングから姿を消した。飴色の液体の横には、色とりどりのマカロンが添えられている。
 妙子夫人は物憂げな表情を浮かべると、作り笑いのような引きつった笑顔になりながら、頭を下げた。
「この度はご心配をおかけしてすみませんでした……主人から色々話を聞いて、正直戸惑っております。……美咲はあいにく奥で休んでおりますが、娘はあなた方との出会いを、心から喜んでいる様子でした。……主人の仕事の事はよく分かりませんが、なにやら怪盗シャッフルにダイヤを狙われているとか。先生に……失礼、先生とお呼びしてはいけなかったのですね。高野内さんに警護して頂けると聞いて、本当に安心しています。……主人はああいう性格なものですから、いろいろと大変でしょうが、よろしくお願いします」妙子の口調は丁寧だったが、彼女の言葉に引っ掛かりを憶えた。誘拐の件などおくびにも出さず、ダイヤの事しか話題に出していない。
「いえ、奥さんが不安になるのは当然です。御主人だって、きっと平常心ではいられないのでしょう。私たちにどれだけの事が出来るか分かりませんが、精一杯の努力を惜しまない事をお約束します」高野内は夫人の顔をしっかりと見据え、力強く言った。
「気持ちを察して頂きまして、恐れ入ります」
「ところで今夜の件ですが、どんな風に聞かれましたか?」
「直接見せて貰ったわけではありませんが、主人の持つクレオパトラの涙というダイヤを、怪盗シャッフルが今夜盗みに来ると」
「それだけですか?」
「……そうですけど。何か?」
 妙子夫人は不安げな顔を浮かべている。やはりそうだ。北鳴門は二通目の予告状の話をしていない。
「何でもありません、ちょっと確認しただけです」
 妙子夫人に全てを話さなかったのは、余計な不安をさせたくないという思いからなのか、それとも別の理由があるのかもしれない。
「美咲ちゃん……美咲さんのご様子はいかがですか?」
 小夜子は思わず訊いた。
「ここでは美咲ちゃんでよろしいわよ。――ごめんなさいね、娘は少し変わっているところがあって……変に思われたでしょう? 校則が厳しいもので、娘は真面目ですから、普段から、ああなんですよ。……あの子にはちゃんと言っておきましたから、今度からは『美咲ちゃん』と呼んでくださいね――あれ? 何の話でしたっけ? ――そうそう、こと……美咲の様子でしたね。娘にはほとんど何も話していません。ただ、怖い人が来るかもしれないから、決して一人で勝手に表には出ないようにとだけ伝えました。――ことみ……いえ、好みのお菓子をあげたけど、それでも娘は何かを感じたらしく、私の前では気丈に振舞っていますが、内心はやっぱり不安だと思います」
 夫人の話を聞いているうちに、妙な違和感を憶えた。話の内容は納得できるが、若干、しどろもどろというか、言葉を選んでいるような印象だった。もしかしたら信用されていないのだろうかと不安にならざるを得ない。
 そもそも美咲は本当に部屋にいるのだろうかと、そんな考えが頭をよぎる。もっとも今の状況をみれば、おのずと気もそぞろになるのは致し方ないとも思えるのだが。
『妙な子と書いて妙子』高野内は北鳴門の言葉を思い出し、納得しながら腕を組んだ。
 高野内の訝しげな表情を読み取ったのか、妙子夫人は、素早く腰を浮かせ「ちょっと、美咲に声を掛けてみます。娘もお二人の姿を見れば元気が出ると思いますので」と、くるりと背を向けた。
「妙子さん、無理しなくていいですよ。もし眠っていたりしているのなら、どうぞ、そのままにしてあげてください」小夜子は夫人の背中に声を掛けた。小夜子は彼女の事を、一体どう感じているのだろうか。
「ええ、大丈夫ですよ」
 夫人は振り返ると、そう言葉を残し、奥の寝室へと向かうために廊下へ姿を消した。
 ノックの音が微かに鳴り、話し声が漏れ聞こえてくると、ドアを開ける大きな音がして、元気な足音と共に、美咲がリビングに飛び込んできた。
「お姉ちゃん、おじちゃん、こんにちは。来てくれてありがとう」
 屈託のない笑顔の美咲は、ふたりの心を和ませた。黒々とした丸く愛らしい瞳に思わず吸い込まれそうになる。
「美咲ちゃん……でいいのよね? 美咲ちゃん元気そうね。良かったわ。お姉ちゃんちょっと心配しちゃった」
 美咲の頭を撫でながら、小夜子は最高の笑顔をほころばせていた。
 高野内も美咲の汚れない笑顔を確認して、胸のつかえがとれたようだった。
「こんにちは。おじちゃんも君が元気でうれしいよ」
「今日は、遊びに来てくれたの?」
 すると夫人が黙って首を振る。もう帰ってくださいとの合図に思えた。
「ごめんなさいね。今日はいろいろあって、ゆっくりしていられないの」
 すると美咲は残念そうに頭をもたげると、今にも泣きだしそうな顔になった。
「……そうなんだ、残念。ここは私の部屋よりも広いけど、遊べる物がないから退屈してたんだけどな」
「だけど明日になったら、おじさんたちが必ず遊びに来るからね」
 高野内の言葉に敏感に反応したのか、急に笑顔を見せる美咲。
「本当? 遊びに来てくれるの? 約束よ」
「ええ、約束するわ」
「じゃあ指切りね」
「指切り?」
「そう。大事な約束のときは、必ず指切りするの」
 高野内は若干、というか、思い切り照れながら、美咲と指切りをした。おそらく小学生の時以来だ。
 小夜子も美咲と指切りをしたが、彼女の場合は、高野内と違ってノリノリに見えた。これが年代の違いという物だろうか、それとも男女の差か。
「それじゃあ美咲ちゃん、また明日ね。それまでいい子にしていてくれるかな?」
 名残惜しいが、妙子の手前あまり長い時間お邪魔する訳にもいかず、そろそろ退散することにした。二人の無事な姿を、この目で確認できただけでも大きな収穫である。
「うん、いい子で待ってる」
 すると美咲は、ポケットから小さく折りたたんだハンカチを取り出すと、小夜子に差し出した。
「これは?」
「私からのプレゼント。昨日のチョコレートのお礼よ」
 小夜子は夫人を見ると、彼女ははにかみながら頷いた。
「ありがとう。大事にするね」受け取りながら、小夜子は美咲の頭を撫でた。
「バイバイ、明日絶対来てね」
 無邪気に手を振る美咲。高野内たちも手を振り返し、会釈をして部屋を出た。
 ドアが閉まる瞬間、美咲の声が小さく聞こえてきた。「……ママ、どうしてお姉ちゃんたちは、私のこと、みさきちゃんって呼ぶの?」
いくら校則が厳しいからといって、そんなに不自然な事だろうか?
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