ざくりという何かが刺さる音が部屋に響いた直後に、ひとつの人影が開かれたままの扉から部屋の外へと飛び出しました。
その人影の正体は誰なのか。
この状況で部屋から逃げ出さなければならない人間は、一人しかいません。
(……嘘、嘘、嘘でしょ!? 本当に、あの人の言う通りになった!)
リリムちゃんは暗いままの廊下を走りながら、先ほど目撃した光景を思い出して戦慄します。
(彼の言うことを信じずに、従わなかったら、私は死んでた)
そう考えながらリリムちゃんが思い出したのは宛がわれた部屋に戻って明かりを落とす前、サイキョウさんの部屋で癇癪を起こした後のことです。
絶対に騒ぐなと、念押しされた後でサイキョウさんから提示された内容は、リリムちゃんからすれば全く信じられないことでした。
今日の夜、寝静まった後で襲撃される可能性がある。
部屋の明かりをきっちり落として真っ暗にした上で、ベッドに居るように偽装して、部屋の隅に隠れてろ。
特に前振りもなく唐突に言われたその内容に、リリムちゃんは冗談でしょうと最初は考えましたが、サイキョウさんの目を見て真面目な話だこれと姿勢を正しました。
しかし、急にそんなことを言われて信じろと言われても難しいものです。
リリムちゃんもサイキョウさんの言葉を疑いたいと思っていたわけではありません。
しかし、ここで襲撃されるということは、すなわちこの屋敷に居る叔父が自分を襲うということに他なりません。
……えっと、その。いきなりそんなことを言われても。
リリムちゃんは弱弱しくそう言うだけで精一杯でした。
サイキョウさんもリリムちゃんの心情をある程度想像できていたのか、吐息を吐いた後で続けます。
……まぁ、ちいひめちゃんからすれば素っ頓狂な話に聞こえるだろうことはわかっている、つもりだ。信じろとも、従えとも言わん。
ただ、俺の言葉を聞き入れる度量があるなら、これを身につけて用心しておけ。
そう言って、サイキョウさんはリリムちゃんに向かって何かを放り投げました。
リリムちゃんはわっと驚いたものの、投げられたものをなんとか両手で捕まると、それが何かを確認します。
ガキがやる偽装なんて高が知れてるからな。
相手が騙されてくれる可能性をあげるお守りさ。
話はそれだけだ、とサイキョウさんはそう付け足すと、リリムちゃんから視線を外して自分の荷物のほうへと向かいました。
短い付き合いではありますが、リリムちゃんはサイキョウさんの言葉は信じるに足るものだと頭では理解できています。
しかし一方で、叔父に対する信頼もあるのです。
信頼していなければ、危機に陥っている状況で頼る先として選択肢に入れるなんてことをするはずがないのですから当然のことでした。
サイキョウさんの言葉と、自分が今持っている叔父への信頼と。
どちらを元に判断するのが正解なのか、リリムちゃんはしばらく黙って考えていましたが――
――やがて何か結論が出たかのように意を決したような表情を浮かべると、サイキョウさんへと問いかけます。
リリムちゃんの視線を受けて、サイキョウさんはしばらくの間どう答えようかと言葉を探すように悩んでいましたが――十分に時間をあけた後で、溜め息まじりに言いました。
……勘だよ。
若い頃には色々と無茶をした。
今もこうして面倒事には事欠かない生活を送っている。
それらの経験で培った勘による推測ってやつだ。
サイキョウさんの言葉は気負った様子もなく、いつも通りの調子でした。
リリムちゃんはサイキョウさんの言葉を聞いて、うん、と何かに納得するように頷くと言いました。
わかった。気をつけるわ。
……どうせ一日だけだもの。
今更床で寝るくらいじゃどうともないしね。
ふんと笑いながらそう言ったリリムちゃんを見て、サイキョウさんは小さく笑って応えました。
……まぁ好きにしたらいいさ。
ただまぁ、今の回答をここで言えたことは評価して、助言を追加しよう。
もしも部屋から逃げ出せたら、まっすぐこの部屋を目指して走れ。
……俺とちいひめちゃんはここでお別れだが、まだ今日は終わってない。
少しくらいはサービスしてやる。
何かやりたいことがあるなら聞いてやろう。
言ったわね、言っちゃったわね!
そのときはこき使ってあげるから覚悟しなさ――うぎゃん!?
だから騒ぐなっつったろうが。
話は済んだ。部屋に戻れ。
リリムちゃんは暴力に訴えてこちらを止めるサイキョウさんに、若干恨みがましい目を向けていましたが、相変わらず堪える様子のないサイキョウさんの姿を見て色々と諦めるような溜め息を吐いた後で、大人しく部屋を出て行くことにしました。
しかし、可能性を知っていることと、それが実際に目の前で起きたことを目の当たりにすることは違うものです。
たとえ事前に起こることを想像していたとしても、他の誰かが自分がいるはずだった場所に躊躇いも無く凶器を振り下ろした姿は、リリムちゃんからすれば悪魔よりも怖いものだったでしょう。
そんな状況で声をおさえ、周囲の状況を可能な限り気にかけて、廊下の上をサイキョウさんの居る部屋の方向へと確実に進んでいくリリムちゃんは、本当に優秀だとしか言いようがありません。
しかし、刺客がベッドの上にいる何かがリリムちゃんではないことなど、その内気付いてしまうことでしょう。もしかしたら、もう既にリリムちゃんを追いかけ始めているかもしれません。
そう考えると、リリムちゃんの思考は焦りと不安でパニックになってしまいそうでしたが――
そんなことを考えたところで現状は変わらない!
……あの人にあったら八つ当たりでもなんでもやってやるから!
そう自らを鼓舞して、リリムちゃんは暗い廊下をさくさくと進んでいきます。
この屋敷の内装はどこを見ても同じように見えるものでしたが、サイキョウさんに宛がわれた部屋については正確に覚えているので迷うことはありません。
やがて、リリムちゃんがサイキョウさんの部屋のすぐ傍まで到着したところで、大きな音が聞こえてきて、リリムちゃんは思わず身を竦めてしまいます。
(戦い、の音? ――私にも来たなら、当然あの人にも来てるってこと!?)
そして、聞こえてくる音の正体に気付いて、サイキョウさんの姿をすぐに確認しようと部屋に飛び込んだ先で見たものは――地獄絵図でした。
扉を開いてすぐに漏れてきた血と肉の臭いは、そのまま持ち主の身体がどうなったかという結果を物語っていました。
リリムちゃんは思わず視線を部屋の外へと逸らしましたが。
わずかに見えた床には少しだけ粘性のある液体がひたひたと滞っては流れ出し、間を埋めるようにかろうじて形の残った人間のものだったろうとわかる一部が散らばっている光景は、簡単に忘れられるものではありません。
(……ひとつ分じゃ、ない。
あの人にはいったい何人の相手を!?)
ただ、そんな光景を前にしてもリリムちゃんは冷静でした。
目の前にあるだろう地獄絵図に怯まず、頭の中に残った光景にある残骸の数を数えて状況を理解した上で、その中に進もうとしたのです。
しかし、リリムちゃんが意を決して足を進めようとするよりも先に、それを押し留めるようなサイキョウさんの言葉が響きます。
もう終わってる。
ここに入っても汚れるだけだから、部屋の外、扉の脇で待ってろ。
荷物をまとめて出る。
リリムちゃんは少しだけ迷うような間を置いてそう応じると、サイキョウさんに言われた通りに部屋の外へと出て行きました。
サイキョウさんも、自分で言った言葉の通りに、それほど時間も経たないうちに部屋から出てきます。
そして、その扉を後ろ手で閉めながら、サイキョウさんはリリムちゃんに問いかけました。
この状況から考えると、予想は当たっていたってことだな。
……それで、どうする?
このままここから逃げ出し、追われる不安な生活に流れるのか。
相手を咎めて打ち勝って、権利を勝ち取るか。
……俺に思いつくのはこの二通りくらいのものだがね。
リリムちゃんはサイキョウさんの言葉を聞いた上で、しばらく考えるような間を置くと、静かに口を開いて言います。
……その二択ならやることは決まってる。
私は全部聞いて納得したい。もうわかんないことが多すぎなのよ、もう!
全部聞いて、その上で、しかるべき対応をとるの!
リリムちゃんの言葉を聞いて、サイキョウさんは声をあげて笑った後で、続けます。
だっから手伝って! あなたが居ればどうにでもできるでしょう!?
サイキョウさんの助言に、リリムちゃんは取り繕う余裕も殆ど無くなってしまったのか、喚くような声でそう応じました。
しかし、サイキョウさんはリリムちゃんの態度を悪いものだとは思わなかったようです。
一番距離が遠い同行者に命令するとは、王族は流石だねぇ。
……まぁそろそろけじめをつけないといけないしな。
いいぜ、手伝ってやろう。俺の思う通りにな。
可能な限りな。
とは言え、誰にだって出来ることと出来ないことがある。
俺は俺の身が一番かわいいんでな、やばそうになったら逃げるぞ。
いまいち頼りがいの無い人なのは相変わらずですねぇえ!?
いいわよ、それで! とりあえず力になってください!
テンション上がってんなぁ、ちいひめちゃん。
そのテンションを保つのはしんどいだけだろう。
少し落ち着け。――相手が来るぞ。
サイキョウさんの言葉に反応して、リリムちゃんはサイキョウさんの視線を追って、廊下の暗がり、その向こうから誰かが近づいてきていることを理解しました。
リリムちゃんは若干サイキョウさんの後ろに隠れるようにしつつ、その誰かが近づくのを身構えながら待っていると、段々とその誰かが誰であるのかがわかってきました。
随分と屋敷が騒がしいようでな、様子を見に来たんだが。
……どうやら大事には至らなかったようだ。安心したよ。
何が起こっているのかは、すぐにうちの家人が確認する。
だからまずは、私たちだけでも安全な場所へ移動しよう。
……さ、こちらに来なさい。
叔父からそう言葉をかけられても、リリムちゃんはすぐに動くことは出来ませんでした。
迷うように、叔父とサイキョウさんの間で視線を何度も往復させた後で、サイキョウさんの方に駆け寄ってから言います。
……君の客人は客人として丁重に扱うとも。
しかし我らはそういうわけにはいかん。
まずは我々、その次に客人だ。
急がないと間に合わなくなるぞ。
リリムちゃんと叔父のやり取りを眺めていたサイキョウさんは、これは埒が開かないなと判断して、言葉を作ります。
横槍失礼。俺もあんまり余裕がなくてな、口を挟ませてもらおう。
……ちょっと、まずいってば。
叔父は階級意識が強い方で、そういうのが一番嫌いなのよ!
知らんわ、そんな事情。
俺がこれに向かって言いたいことを言うのに、何の支障があるんだ。バカか。
……おまえは何を言ってるんだ。
最初から殺しに来てるやつにそんなことを言っても、それこそ意味がないだろうが。
場所確認して、強めの従者を控えさせて。
今度は情報を収集ってところかなのか?
随分と念入りだが、そんなにしてまでやりたいことなのかね。
姪をわざわざ殺そうとするなんて、俺には理解できないがな。
サイキョウさんが口にした言葉に、思わず疑問符を浮かべてしまったリリムちゃんでしたが、リリムちゃん自身もその可能性には気付いていました。
これは本当にたまたま起こった偶然で、叔父が犯人なわけがないと単に認めたくなかったから見ない振りをしていただけでした。
しかし、サイキョウさんがその見たくなかった部分を出してしまったせいで、叔父の表情が変化しました。
……まさか初対面の君にさえ察せられていたとはな。
私もまだまだ演技が甘いようだ。
強い敵対心が前面に出た叔父の表情は、リリムちゃんも今まで見たことがない表情で。だから少し恐れを感じてしまったリリムちゃんは、サイキョウさんの脇に隠れるように身を小さくします。
こっちの芝居もクソみたいなもんだっただろうから、お相子ってやつだ。気にしてないさ。
サイキョウさんは叔父に視線を向けつつ、傍によってきたリリムちゃんに対して小声で言います。
……ちいひめちゃんよ、さっきはああ言ったがな。
これから始まるだろう面倒事は、無いなら無い方がいい類のものだ。
このまま冗談だってことにしてしまえば、多分相手も乗ってくるぞ。
どうする?
サイキョウさんの気遣うような言葉を聞いて、リリムちゃんは歯を食いしばった表情でサイキョウさんの顔を見て、答えます。
最初に言った通りよ。
全部知りたいの、知らなきゃ気持ち悪くてもう耐えられないのよ。
だからお願い――助けて。
リリムちゃんの言葉を聞いて、サイキョウさんは溜め息を吐いた後で、りょーかいという言葉を返すと叔父に向き直ります。
そういうことらしい。大人しく事情を喋る気はあるか?
時間も遅いのでな。少し難しい。
だから――おまえたちの墓の前で、笑いながら語ってやるとしよう。
叔父の表情が変わり、決め台詞のように放った直後のことです。
サイキョウさんはそれをまともに見ることもなく、脇にリリムちゃんを抱えてその場から離れるために駆け出しました。
――って、ちょっと、どうする気なのよ!?
いきなり走り出して、更に印象が悪くなるんじゃないの!?
殺すって言ってくる相手の印象なんて気にしてどうするんだ。アホか。
……あんな狭いところで誰かとやりあうとか面倒だろ。
広いところに移動しておくぞ。
一方で、決め台詞を聞き流されたあげく、廊下にぽつんと残された叔父はサイキョウさんの態度に大変立腹したようで、声を荒げて口角泡を撒き散らしながら叫びます。
~~っ! ――さ、最近雇っておいた傭兵はどこに行った!?
あいつに仕事をさせろ! 二人とも殺していい!
拗らせてるんじゃないの、色々と。忙しいと大変なんだろう。
サイキョウさんとリリムちゃんは、順調に叔父から距離を採りつつ、そんなしょうもない会話を繰り返しています。
いや、しかし。これからどうしたものやら。
何か案ある?
何も考えてなかったよこの人おおお! もうやだああ!
――安心しろよ、すぐに何も考えられなくなるだろうからさぁ!
サイキョウさんとリリムちゃんが走りながら――リリムちゃんは抱えられていましたけど――交わしていた軽口の応酬に、別な人間の声が交ざります。
その声と共に向けられたのは、鋭く走る銀弧の群れでした。
銀弧は周囲の家具や壁を一切の区別なく通過します。その過程で砕かれた破片は周囲に散って、その殆どがサイキョウさんとリリムちゃんの向かう先を塞ぐように落ちていきます。
は、破片が顔のすぐ傍を……!?
ねえ、ちょっと。怖いんですけど、もうちょっとマシな扱いしてほしいんですけどおおお!
へえ、やるじゃん。
全部当てるつもりでやったのに。
……おっさんって実は強いの?
年齢勝負だったら負けないかもな。
……あー、ちいひめちゃんよ。
思った以上に面倒なのが相手のようだ。
しばらくの間、ちょっと激しく動くから――だいぶ我慢しろ。
その表現ちょっとおかs――せめて返事を待ってから動くとかいう気遣いが欲しいんですけど!?
そう言って、サイキョウさんはリリムちゃんを抱えた状態で走り出しました。
その速さは並の人間であれば目で追うことさえ難しいものでしたが、
突如現れたその刺客は、サイキョウさんの動きを見て楽しそうに笑いながらそう言うと、サイキョウさんと同じかそれ以上の速さで二人の後を追い始めました。