第78話

文字数 1,882文字

          78,
 度部が隠し持っていた「天女像」の掛け軸、初めて目にしてから十数年経つが、今もその絵は、天女像の立ち姿、構図、色が、成瀬の脳裡に鮮明に焼き付いている。あの掛け軸を度部が何処で、どんな経緯で手に入れたか分からないが、古代朝鮮の骨董に造詣深い成瀬は、数多の「天女像」を過去に目にして来たし、その内の数本の軸は実際に、決して正当ではない手段で手に入れて、今も実家の蔵に隠し持っている。
 しかしそのどれも、古代朝鮮、古代中国、いや遥か遠い昔の、唐か天竺の女神を模したような「天女像」が描かれて、どこかぽっちゃりと太り、眼は太く、髪は髷のように束ねたものばかりで、骨董的値打ちは十分あるのだろうが、度部が隠し持っていた「天女像」は、細身でしかしふっくらと、細い目が流れ、湯上りに濡れたような髪は腰の辺りまで長く、その腰に引っ掛けるように羽衣を纏って、見ているだけでその濃艶に震い付きたくなる程の衝動に駆られる、正に生身の人間の本性、究極の性の美の姿、そのものだった。
 度部に、譲れと何度も迫ったが、絵や陶磁に何の値打ちも判らないあの男は、おもちゃを、何処かのガキ大将に取られそうになった子供のように怒気剥き出しにして拒否した。
 
 先日、骨董屋から電話があった、あの「天女像」が戻って来た、と云う。聞けば、その構図、色使い、何よりも羽衣纏った立ち姿は、正真正銘、度部が持っていた「天女像」そのものだった。それを不埒な野郎に盗まれたと骨董屋は云っていた、もう二度と目にすることはないと諦めていたあの「天女像」が、どういう経緯があったか知らないが、今、現に、骨董屋の手に戻ったと云う。
 骨董屋は値段を吊り上げて来た、一萬が三萬だと云う、不埒な野郎に渡した七萬は諦めてもよい、しかし即金で買い取れと云う。あの、手に算盤持って生まれて来たようなあの骨董屋が、騙し取られた七萬は諦めて三萬圓で売る、と云う。どういう魂胆か分からないが同意した。あの掛け軸が三萬で手に入るなんぞ、成瀬には夢で、狐狸の類に化かされているようなもの、その現金と現物との交換を数日前に予定していた、
 だがその直前になって骨董屋から電話があった、賊に入られ、持って行かれた、と云った。成瀬は、被害状況を訊いた、骨董屋は片腕を木刀で叩き折られた、銭は佰圓の札束を持って行かれた、だが、オレも抵抗して、賊の、男の頭を木刀でかち割ってやった、と自慢げに云う、金を盗られ、体も痛め付けられた骨董屋、なのに何だか清々したふうに云う、怪訝する成瀬の様子を感じ取ったか、骨董屋は云った、
「あんなのにこれ以上関わっていたら、この先どんな目に遭うか知れたものじゃない。先生、あの絵は飛んでも無い怨念込められた、呪いの絵に違いない、ですよ」
 そして今日、「朴明哲」と名乗る男から手紙が届いた、成瀬は「朴明哲」からの手紙を、骨董屋の話に出て来る賊の姿を当て嵌めて読んでいた。

 朴明哲は、佰萬で買え、と云う。買い取ってもいい、佰萬の現金なら手持ちの金から用意できる、だが元憲兵隊将校、元警視庁捜査一課長のこの俺を脅すとは…成瀬は、次第に怒りが込み上げて来た、
「舐めるんじゃねえや」
吐き捨てるように云った。成瀬は気を落ち着かせ、じっくり考えた、しかし、ことはそう簡単ではなかった、あらゆる点で成瀬は不利、だった、
 朴明哲は、あの日、成瀬と度部が、あの列車で乗り合わせていたことを知っている、しかも、度部を促して混雑する通路を抜けて車両の後部に行き、成瀬一人だけが、白いコートに血を滲ませて車両内に戻って来たことまで知っている。
非常にまずい状況だった、が、落ち着いて状況分析すれば、それがどうしたと居直ることだって出来る、俺は、あの日、後援会長に会って、次期参議院議員選挙に立候補すると決意を伝えに行った、度部がどんな訳であの列車に乗っていたのか俺の知ったことではない、乗り合わせたのは全てが偶然だった、と云い張ればいい、今のこの日本で、俺と度部の関係など知る奴など居る筈もない、列車で一緒だったことを責められても、それがどうしたと、しらばっくれてやれば済むことだ。
 それに憲兵隊時代の、度部との関係が知られたところで、もしかして俺の部下にそんな奴が居たかも知れないが、そいつが何をしたのか俺の知ったことか、そいつが慶州の古寺から工芸品、美術品盗んでいたと非難されても、それがこの俺と何の関りがある、その盗んだものをどうしたのかと問われれば、それは度部本人に訊け、俺の知ったことか、と怒鳴り倒してやればそれで済む。
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