第48話

文字数 1,307文字

             48,
 上橋弁護士は、激昂する杉戸をそのままにしてふと席を立ち、仕切りから一旦出て、台帳のような物を重そうに脇に抱えて戻って来た、そしてそれを机の上に置くと、
「これ、ね、検察から私の方に提供されている、事件実況見分調書、なんですが、初公判終了後に裁判所から私に渡されて、多分、私が、情状酌量を願い出て検察も安心したんでしょうな、全資料、渡してくれました。
 眼を通して行く内に、事件の裏に、段々、被告とは違う別の人物の影のようなものが見えてきまして、ね、普通ならね、今、杉戸さんが仰ったように、私は、この事件、痴情の縺れ、金を騙し取られた、などと訴えて引き起こされたようなこの種の事件に、特に興味も無く、まして既に被告が犯行を自供している案件ですから、おざなりに済ますんです。 
 いや、私は知っているんですよ、皆さんが、私のことを「コクセンヤカッセン」とか「死刑執行人」だとか云っているのを。でも、実際、私はそうですから、間違いなく。
 でもね、杉戸さん、普段、私に回ってくる事件なんて、犯人有りき、なんです。ロクでもないやつがろくでもないやつを殺す単純な事件、なんです。私の仕事は、こんなろくでもないやつに引導を渡して、さっさと死刑台に送ってやる、か、懲役罰を与えてやることなんです。
 ですが、この実況見分調書を読んで行く内に、まさに、犯人ありき、なんですよ。今申したロクでもないやつが、クでもない理由で起こした事件ではなく、ロクでもないやつが陰に隠れて、ロクでもないやつを造り出してロクでもない罪をなすりつける、そんな印象を持つようになりましたんです」
弁護士上橋の、杉戸には想定外の話に、杉戸は聞き入っていた。
「で、ね、しかし、杉戸さんもご存じ通り、こんな年老いたコクセンヤカッセンにも、みつごの魂、何んとか、やけぼっくりに何とかで、何だか燃えるようなものが湧いてきまして、ね、それで、昔の私の教え子にこの事件の事、話してみたんですよ。多分、杉戸さんも何度か名前お聞きかと思うんですが、見附君、見附弁護士に会って話をしてみたんですよ」
見附の名が出て来て杉戸は驚いた。見附は杉戸と大学の法学部で同期だった、ただ、杉戸は民法を専攻し、見附は刑法を専攻し、大学を中途半端な成績で卒業して新聞社に入社した杉戸に対し、見附は当時からその優秀な才で有名で、今では法曹界の期待の星となっている。
 その見附がこのコクセンヤカッセンと嘲笑される上橋弁護士の教え子、だっととは杉戸には俄かに信じられなかった。
 その見附に杉戸は強要して数日前に面会していた。今回事件の弁護人を務めてくれるよう依頼していたのだ。
 しかし見附はあっさりと断った、理由は、無理、だと云った、何故?と問うと、自白事件、真実無罪であっても、今の日本の、戦前の慣習そのままの日本の裁判制度では、一旦自白した事件をひっくり返すのは不可能、だと即答した。新刑事訴訟法により証拠主義となっても、特に重大事件では自白自供は未だに最有力であり、最も有効であり、検察側が被告に強要した自白自供に合わせて、却って偽証拠が乱造されているのが実情だと云う。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み