第30話

文字数 2,334文字

            30、
 こうして事件状況を想像し、その経緯をみていくと、杉戸の頭の中に描かれる犯人像はただ一人、警官度部の姿だけが見えてくる。
 そして、警官度部だけが、吉津祥子、野地辰男を殺す訳を持っていて、身代わりに自衛隊員佐川を立てる理由も見えて来る。

 杉戸は、運転手に旅館迄送って貰い、取り敢えずは、旅装を解いて寛ぎ、風呂で湯を浴び、魚の刺身で、軽く酒を飲んで寝転んだ。丸二日間の不眠と船酔いで、くたくたの体から緊張したものが解れ、杉戸は一気に深い眠りに落ちた。

 爽やかな目覚め、杉戸は早くに起き出し、取材に出る用意をして、予約しておいたタクシーの到着を待った。
 だが、待てど暮らせど、一向に車が来ない。旅館の亭主に頼み、運転手に電話をして貰ったが、電話に出ないと云って来た。今日の約束を忘れて何処かで客を探して走っているのかも知れない。
 杉戸は思い出した、旅館前で昨夕、下ろして貰った時、運転手は帳面に、杉戸に再度予約時間を確めて、それを書き留めていた。
 仕方なく、杉戸は旅館の亭主に自転車を貸り、それで巡回することにした。
犬も歩けば、では時間の無駄、杉戸は事件のあった場所周辺中心に、島民に声を掛けてみることにした。
 よく晴れて、風は穏やかで、のどか、だった。街中では、近頃は自転車に乗ることも滅多とない。こんな大海原の、絶海の孤島で、のたりうつ緑い海を眺めていると、こんなところで殺人事件が起こるなんて信じられないが、しかし、杉戸は知っている、どんな山の中でも、どんな街の中でも、どんな闇の中でも、真っ昼間でも、ひとは殺し、殺される、年がら年中、杉戸らは事件を追って走り回っている。
 畑に、鍬に凭れて曲った腰を伸ばす老人の姿、があった。杉戸は挨拶した、が、意外なことに、老人は、一瞬、杉戸を見た途端に、鍬を振り上げて、土を掘り始めた。
 聞こえなかった、のかな?しかし何となく老農夫の動きにぎこちなさがあった。海岸線を走り、一軒の商店を見つけ、店の前で老女が、水を撒きながら、掃除をしている。近づいて、声を掛けると、老女は、杉戸の顔を見るなり、店の中へと、何だか、用事でも思い出したように慌てて入って行った。
 先発でこの地を取材した原田から、島民の、一時は大勢押し掛けただろう取材陣への反応について、特に報告は受けていなかった。が、何もなかった、ということは島民の反応に違和感が無かったということ、だろうに、何だか、嫌な感じがする。
 杉戸は、思い当たった、今朝の迎えを予約してあったタクシーの運転手は、昨日、暫く客がないからお願いしますと云っていた、のに折角の予約をすっぽかしたこと、何だか、意図的にそうしたのでは、と思えて来た。島民の反応も、何だかそれに近い。
 杉戸は昨日、事件現場で警官度部と会ったが、あの度部が、杉戸と心安く話していた運転手にその後、口止めをし、島民にも要らぬことは喋るな、と触れて回ったのではと思えてきた。
しかし、もしそうだとしたら、杉戸の、警官度部への不審、疑いの矛先がまんざら的外れでもなさそうだと、却って自信が湧いて出る。
 しかし何故、警官度部は、島民に箝口を強いるのか?原田からは、取材中に、警察から何か邪魔された、妨害された、ので気を付けろとも聞かされていない。
 だが、事件現場周辺での聞き込みは絶対欠かしてはならない、事件記者たるべき最低限死守すべき鉄則である。

 杉戸は、島内をサイクリングする、何もこれと云って、何かの役に立つものに行き当たらない、が、ただ一つ気付いたのは、先に都議会議員選挙の、候補者ポスター掲示板が、島内あちこちに、撤去されずに残っていることだった。都内では、そんな選挙があったことさえ遠い過去の話となっている。
 杉戸は自転車に跨いだまま、その内の一枚の掲示板を見る、トップ当選した元警察官僚成瀬の、無理に造った、笑顔の似合わぬ顔写真が真っ先に目に付いた。
 被疑者佐川が警視庁本庁に移送された時、玄関に立つ杉戸は、背中を針で刺すような視線を感じて本庁の建物を見遣ると、上階の、一つの窓からその視線が送られて来ていた。
 二つの人影、一つはすぐに隠れ、もう一つは、成瀬、だった。警官、だけに限らず役人は、国家権力を笠に着てひとを威圧する、正に虎の皮を被った小ぎつね、である、従わぬものには容赦しない。
 戦前戦中、正にそんな時代であった。だが、敗戦後、官憲は何一つ変わっちゃいない。特に警察権力、その国民への粗暴さは逆にひどくなっている。
 成瀬は、そんな警察権力の最高位に居た人物である。世に怖い者無し。そんな人物が、
何故、あの日、あの時間、あの窓から、~島男女殺害事件被疑者佐川の、本庁への移送を見下していたのだ?何か、気に成ることでもあるのか?
しかし、成瀬は警視庁ではもう過去の権力者であり、この事件に対して何らの権限も持ち合わせない。
 たまたま、そこに居合わせた、だけなのか…都議選公示の看板が、今回事件との何かの関りを示唆しているように思えて、杉戸は、写真の成瀬の顔を眺め、その下に羅列した成瀬の経歴についての記事を読んでみた。
 戦時中、憲兵隊将校として中国本土に、そして終戦時には朝鮮に赴任していた、と記されている。成瀬に、憲兵隊、または内地特高警察に対して決していい印象は無い。今もなお、日本の警察は、GHQに厳しく命じられても、その能力不足から科学的であることに馴染めず、いや理解出来ず、未だ、明治憲法そのままの捜査体制に固執している。
 杉戸は想う、未来永劫、変わることはない、だろうと。理由はたった一つ、無能、だからである、無能の為政者にとって、唯一頼れるのは、権力、だからである。
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