第64話

文字数 1,657文字

             64,
 世間は、敗戦後の食料不足に加え、朝鮮戦争終結後の物資不足が続き、闇市は更に盛況した、人びとは闇市に持ち込んで金や食料に換える鍋カマの類のガラクタを求めて街中彷徨い、また農村への食糧買い出しに狂奔していた。

 上野駅構内は、そんな買い出し客が逃げ惑い、取り締まる警官が笛を鳴らして追うなどして、更に喧騒を極めていた。
 芋の子を洗うようにごった返す駅構内に、何処か田舎者臭く、不慣れに背広を着込んだ男が、背中に背広姿に不釣り合いな、旧日本兵の背嚢のようなリュックを背負ってホームのベンチに座っている。
 警官に追われて、目の前を逃げる男の手から、破れた新聞の紙片が風に転がって、男の脚に絡みついた。男はそれを手に取って広げた、そこに我が顔と名前を見て、咄嗟にその紙片をくしゃくしゃに握り潰して、上着のポケットに押し込んだ。
 その指先に、タバコの箱が触れた、苛立ちと動揺を鎮めようと、くしゃくしゃになった茶色の紙箱を取り出し、一本抜き取って火を点け、大きく深呼吸するように吸った。
 男の座るベンチの前には、長野方面行きの旅客列車が真っ黒い車体を横たえて、車輪辺りから時折り、真っ白い蒸気を吐き出して、神経過敏になった度部を驚かせた。

 度部は、昨日の内に、大阪から夜行列車で東京に戻っていた。特に街中に出てすることもなく、いや、敢えてこの顔を人目に触れぬようにするには、この喧騒、混雑が必要だった。後数時間後に出発する、この旅客列車が停車したホームのベンチでひっそりと座っていたのだった。

 度部は四日前、都内の小さな公園で、成瀬と会った時のことを想い出していた。度部は成瀬の事務所に何度も電話をしたが、事務所の職員は成瀬に電話を繋いでくれなかった。何度も何度もしつこく電話を掛け、ようやく成瀬に電話が繋がった。
 度部はすぐに会いたい、と、声に脅しを滲ませて云った、成瀬は渋々了解し、或る公園を指定した。時間通り、成瀬は来た。
「朝鮮に逃げる、金が要る、三佰萬圓出せ」
と開口一番、度部は要求した。成瀬はその要求額に驚いていたが、ふうと呼吸すると、
「分かった、だが三佰萬は大金だ、すぐには用意出来ない、それまで、何処かに隠れていろ。金はオレが直接、オレの実家の倉庫へ持って行ってそこで渡す。だがこれが最初で最後、だ。オレは選挙に大金を使い果たしたばかりだ」
「いつ、だ、いつ金を持ってくる」
度部は、敗戦直前、二人で闇に隠れて朝鮮憲兵隊から持ち出し、海峡を渡り、成瀬の実家の、長野の屋敷に隠した古代朝鮮の財物の山を思い出した、
「四、五日もあれば用意出来る。四日後の昼頃、電話を掛けて来い。名前は、山上、でいい、その明くる日に、俺の実家の倉庫に来い、そこへ持って行く。鍵は、これだ。着けば戸を叩く、合図は昔のまま、三回、二度繰り返す、多分、昼までに着く。外には絶対出るな、ひとに顔を見られるな」
「分かった、オレはその間、大阪で朝鮮に渡る舟を手配する、大阪に手配師が居る、話はつけてある。四日後に、お前の実家に行く。裏切るなよ、云わなくても判っているだろうが、オレが捕まれば、お前も、一蓮托生、地獄の底に突き落としてやる。
 お前は、世の中落ち着けば、オレを東京に呼ぶと約束した、だが今日の今日まで、なしの礫だ、もっと早くオレを東京に呼んでおけばこんなことにはならなかったんだ。全部、お前のせいだ。
 再た約束を破ればお前も地獄に引き摺り込んでやる。オレもお前も朝鮮で、散々にひどいことして生きて来た、そのお前が今や都議会議員先生だ、オレは捕まればお前とのことを全てバラす、オレはいつ死んでもいい、だが昔の悪事がバレて困るのはお前だ、バレればお前は全てを失う。オレは失うものは何もない。
 オレは朝鮮に行く、その方がお前にも都合がいい筈だ。オレが盗んだ財宝は、金に換えれば飛んでもない額になる、世の中、落ち着けばもっと値が上がる、三佰萬の金など安いモンだ。その、たったの三佰萬、惜しむなよ、先生、成瀬お大尽様よ」


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