第39話

文字数 1,669文字

第四部

              39,
 杉戸は旅館で電話を借りて本社の部長に長距離電話を入れた。原田から二、三聞きたいことがあったが、以来福島に出張ったままだと云う。
杉戸は佐川の、今後の公判予定について訊ねた。佐川の元同級生が杉戸に不平を云ったように、以来、当事件について、各社、その紙上で続報は一切無かった。
 有る筈がない、杉戸の他にこの島に滞在する記者は一人もいないし、一旦身柄が本庁に移送され送検されれば、余程のことでない限り、一々、殺した殺されたの、今や日常茶飯事的な事件で有罪無罪を争うなど有り得ないし、世間も一つの事件にいつまでも興味を持つほど暇ではない。明日食う米どころか今食う残飯を探して町中を彷徨う時代である。有れば盗み、隠せば奪う、抗せば殺す、世の中、そんな時代である。
警察にとって、いや更にその上見れば、こうした世情は有難い、誰も騒ぎ立てる者がいなくなるのを待つのがこの世界に生きる虫共の習性である、未来永劫、変わる筈はない。
部長は、国選弁護士が決まった、第一回公判が、十日後に開かれると教えた。接見を終えて出て来た弁護士上橋が、記者に訊かれて、
(被告は、~島署で申し述べた通りに間違いありません、一時の感情に任せて人の命を奪ってしまったことを深く反省しております、裁判が始まれば自分がやったことは全て話しますと云っている)
と答えたと云う。
 警察が、取り調べを終えて事件被告の認否を公表する時の、判で捺したような決まり文句、(深く反省し、皆さまをお騒がせさせてしまったことを…)的な、国選弁護人の答え、だった、
頑固に否認しているかと思っていた杉戸は、これを聞いて拍子抜けした。
杉戸は、弁護士の名前が上橋と聞いて、もう一度聞き直した、
「そうだよ、その上橋一徹弁護士、だ」
上橋一徹、杉戸はこの名前を聞いいただけで、その顔の、深い皺や、また下唇だけ動かして喋る癖がすぐに思い出された。
事件記者には知られた弁護士先生である、何で有名か、全て検察の云うがままであることでその名を知られる、国選専門の弁護士である。
 上橋はその公判初手から情状酌量狙いの答弁を繰り返す。従って上橋一徹は、被疑者もしくは被告が、涙を流して素直に罪を認めている場合に限り、または誰の眼にも明らかに有罪が有力視されている場合に限り、所属する弁護士会を通じて当番弁護士としてその事件裁判の国選弁護人に指名されるよう立候補してくる。
 従って上橋一徹弁護士が被告に同席する公判は、ただ量刑を決める手続きだけの裁判となる
今回事件に上橋一徹弁護士が国選弁護士として自薦してきたところを見ると、被告の有罪に余程自信があってのこととなる。
 その自信の根拠は、警察発表に在る、のだろう。犯行直後、全身血塗れで、血の滴り落ちる包丁を持って逃げ出したところで警官と鉢合わせて捕まった、これ以上の、またこれ以下の、被告を無罪とする証拠も証言も証人も存在しない事件と判断したのだろう。
 部長は、で、そっちは、と訊いた、
「完全に無罪、ですね、冤罪の可能性もあります」
杉戸は断言した。
「ま、君のことだから間違いは無いと思うが…」
何だか歯切れが悪い、部長は暫く間を措いて、
「いつ、戻る?」
杉戸は次の便で帰る、と伝えた。次の便で帰れば、第一回公判を傍聴出来る。

 杉戸には次の便に乗るまでにしなければならないことがあった。事件発生当夜の、吉津祥子の家の近所住民に、何か気付いたことが無いか聞いて回る必要があった。
ひとは云わないのだ、知っていてもいわないのだ、云いたくても云わないのだ。云う時は逆を云ってしまうのだ、いい人、だった、と。世の中に悪い人は居ない、のだ。だからひとはいい人に関わらないことを良しとする。
 畑で農作業していた老人が、そして雑貨屋の女店主が、杉戸が普通に挨拶しただけで、杉戸は無視されたことがあった。杉戸は、この二人のわざとらしい無視が気に成っていたのだ、そしてこの二人は、何か見たか聞いたかしている、とその素振りで直感していた、他の島民でも、何か知っている筈…
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