第63話

文字数 2,297文字

          63,
 翌日の新聞は、社会面のトップに、
「参考人の警官、出廷せず、移送途中、逃亡か」
と大書きして、読者の目を引き、そして記事には、参考人として出廷を求められた~島署警ら課所属の巡査との質疑応答無しに、展開した第四回公判廷の進行を詳細して更に読者の好奇心を掻き立てた。
 中には、失踪した警官の自殺を心配するふうを装って、警官の名前と顔写真を掲載する新聞もあった。

 裁判所は~島署警ら課巡査長度部に出頭命令を出した。~島署はその命令を受けて度部の身柄を拘束すべく、宿舎に、度部の部屋に家宅捜索に入った。度部の姿は元からそこに居ない。
同僚が同僚の部屋を捜索する形になったが、警官達は命じられた通り、手順に則って部屋の中を捜索した。
 敷きっぱなしの布団、洗面台、台所、今起きて、今飯食ったような状態だが、他にめぼしいものは何も無かった、もぬけの殻、だった。
壁に、吉祥天女を描いた、古びて茶化た掛け軸があった。その横に、半年ほど前に終わった都議選選挙ポスターが一枚、貼ってあった。当選した、元警視庁捜査一課長、成瀬の、造り笑いに満ちたポスター、だった。
 警官はこの二つの絵の不釣り合いに首を捻ったが、そのまま無視した。ベランダがある、ガラス戸を開けると、そこに一足の制靴が並べて置いてあった。
 警官達は、公判で、度部の靴底に付着した血痕が問題になっていたことを聞いていた。唯一の証拠物件、だった。一人の警官がその靴を持参の布袋に入れようとして、何気に靴底を見た。血痕らしきものは肉眼では見えなかったが、吐き捨てたチュウインガムを踏んづけたように、何か白い物が底の隙間にこびりついているのが判った。
 何であれ、問題となっている証拠物件である、警官は布袋に入れて署に持ち帰った。だが、その靴は、証拠物件として、次回~島殺人事件公判に提出されることは無かった…

 その夜、一人の、びっこをひいた男が、手に鋭いナイフを持って、官舎、度部の部屋に忍び込んだ、部屋の鍵は壊れていた。
 男はこの日、東京から船で~島に着き、夜を待った。男は、度部に会うつもりだった。三日前、拾って読んだ新聞に、思い掛けなく、度部の名前と顔写真を見つけた。男には記事の内容が判らない、だが多少は漢字も読めた、凡そのことが把握出来た、すぐ~島行きの船に乗ったのだった。男は片方の脚を引き摺って歩いた。
 ~島の何処かに隠れているかも知れないと思った、男に他に心当たりするところなど、この国には有る筈も無かった。隠れるとすれば警察官宿舎に違いないと見当付けた。居なくてもそこに何か手掛かりがあるかも知れないと期待した。
 宿舎住民は寝静まっていた。部屋の入口戸に、度部の名前を見つけた、その戸をそっと開けた、息を潜めて部屋の中の様子を窺うが、まるで人の気配がない。懐中電灯で中を照らした、敷きっぱなしの布団、だが人の気配がない。
 男は、やっぱり度部は、ここにはいなかったか、と落胆した。それでも何か手掛かりがないかと部屋の中を懐中電灯の灯りで照らした。壁に一枚、選挙用のポスターが貼ってある、その、無理に造った笑顔で映った顔を見て、男ははっと息を飲んだ。
 ポスターの下の欄にもその経歴が書いてあるが、それを読まなくても、ポスターの男が元朝鮮軍憲兵隊分隊長成瀬、だとすぐに判った。読める漢字で、それが東京都議選立候補のポスターだと判った。
 その横に吉祥天女像を描いた掛け軸…
この二つの絵は、男の頭の中で繋がり、脳裏に、あの日の非残な光景が蘇った、途端に悲しみと、怒りと悔しさが一気に込み上げて来た。そして片脚の銃創が激しく痛み、男の口から、聞き慣れない言葉がほとばしった、
「죽여줘」
 あの日、男は、抗日武装農民として捉えられていた憲兵隊収容所から脱走した。男はその組織の情報を吐けと、毎日拷問に晒されていた、だが強情に拒否し続けた。顔を殴り、竹刀でその背を、憲兵度部が打ち、もっと痛めつけて白状させろと、拷問の惨状を口角に笑みと侮蔑を浮かべて見物する上官の成瀬が命じた、拷問は過酷を極めた。
 男は夜陰、隙を見て逃げた、母親も連れて逃げなければと家に戻った、憲兵度部が待ち構えていた。
 男は斧で度部に襲い掛かった。度部は拳銃を抜き、男の脚に向け発砲した。男はもんどりうって転び、撃たれた脚を抱え、獣のように吠えて転がった。度部は男の頭を狙って拳銃を構えた、老女が、男の前に立ちはだかった、
「私の息子を撃つな、殺さないでくれ」
と叫んだ。度部は朝鮮語を理解した、
 老女は、激痛に吠える男の母親、度部より一回り、二回りは上の、髪はほぼ白髪で、その髪がざんばらに老女の顔を覆っている。
 度部は容赦なく老女を軍靴で蹴り倒した。老女は転げて壁に体をぶつけた。その時、老女の履いていたチマが腰のあたりで破れ、尻が剥き出しになった。老女の様子から想像したよりその肌は若々しく、真っ白で張りがあり、度部の男根は溜まらずいきり立った。
 度部は哀願する老女を蹴り倒し、その服を剥ぎ取り、腹這いにさせ、首の後ろに銃口を突きつけ、度部は後ろから老女を犯した。度部が突き上げる度、老女は悲鳴を上げた。その隙に男は逃げた。
 男は村に戻った、母親は憲兵に撃ち殺されたと聞いた…男は復讐せんと憲兵度部の隙を狙って付け回した、奴の宿舎にも忍び込んだこともある、そこに一本の掛け軸を見つけた、
「天女像」
何かの宗教の信者か、と思ったが、その時、誰かが部屋に入って来る物音が聞こえて、男は逃げた。


 男は、成瀬の選挙ポスターを壁から引き剥がし、そして掛け軸を丸めて持ち去った。


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