第82話

文字数 1,114文字


           82,
 上野駅、黒塗の鉄の塊のような機関車が白い息を吐いて到着する度、降車客が吐き出されて寄せる波のように一塊に押し流れ、また席を求めて誰よりも早く乗りたい客の群れが返す波のようにその流れを押し返し、互いがぶつかって大きな人間の渦となり、構内は怒声と悲鳴で喧騒する。
 赤電話の前には順番を待って長い行列が出来ていた。ホームのベンチに足を組んで、白いシャツを着た、一見、どこかの会社員ふうの男、しかし斜に被った鳥打帽の庇の影に隠れた男の眼は、赤電話の周辺に、人探し顔で現れる一人の男の姿を探していた。
 目印は、男の額に、木刀で割られた大きな傷と、大量に噴き出た血の痕があると男は聞いている。依頼主と、その額の割れた男が待ち合わせる時間は、午後の二時、駅構内の大きな時計の長針は既に真横に倒れている。
 来ない筈はない。依頼主の話では、佰萬圓の金と掛け軸を交換することになっている、その掛け軸を小脇に抱えた、額の割れた男の姿は周囲の雑踏の中にもない、しかし必ず現れる、大金佰萬の金がそこら辺に落ちている訳はない、見上げて屋根から落ちて来る筈もない、俺なら約束の金、死んでも受け取りに来る。
 赤電話を待つ行列の中に、一人、足を引き摺る男の姿があった、依頼主から、待ち合わせる男が脚に障害があるとは聞いていなかった、だが、その男、毛糸で編んだような帽子を深く被って額が見えない、しかも、その手に、掛け軸を包んだような筒も持っていない。
 この時季に毛糸の帽子は早過ぎる、そして引き摺る足がまるで棒で括ったように真っ直ぐ、だった。
 男はベンチを立ち、赤電話待ちの行列の横を通り、目指す男の横にぴたりと立ち止まった。鳥打帽に気付いた男は、その顔を訝し気に覗き込む、そして咄嗟に顔色を変え、逃げ出したが、その腕を掴まれ、後ろから背中に、刃物の切っ先を突きつけられて大人しくなった。
 鳥打帽の男は朝鮮語で話しかけた、びっこを引いていた男は男の指図に従い駅を出て、駅前で待つ車の後ろ座席に押し込まれた。車の中には、鳥打帽の男が云った、成瀬の姿はなかった。騙されたと知って、男は暴れて外に出ようとしたが、鳥打帽と、車の中の男達に羽交い絞めにされ、車に引き摺り込まれて、車は上野駅前から走り去った。
 走る車の中で、男は、被っていた毛糸の帽子を剥ぎ取られ、びっこを引いていた脚のズボンをナイフで引き裂かれた。脚に巻き付けて括りつけていた厚紙を引き破られ、朝鮮語で、掛け軸は何処に在ると責め立てられ、そして罵倒され、顔を何度も殴られて、遂にその喉を掻っ切られて噴き出す血を見ながら、男は、擦れる声で、
「엄마」
と漸く声に出して、息絶えた。
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