第35話

文字数 1,640文字

           35、
 杉戸は、島内に唯一軒しかない開業医を訪ねた。暫く待たされて現れたのは、戦前の、尋常小学校の校長先生然とした、目も眉も、耳も大振りで、頭はくしゃくしゃの白髪が雑草のように生えている。
 原田から、この岡田診療所の院長、岡田雄一医師が、今回事件被害者二つの遺体を、~署から遺体検案を託された医師だと聞いていた。
 だがこの島で、この医師が、目の前で脈をとりながら、ご臨終を確認した死体以外、また溺死体などの事故死以外で、事件性のある遺体を検案したことは過去に一度もなく、聞けば顕微鏡すら診療所には無く、また検案書をどう書けばよいかも知らないと、自嘲気味に記者たちに話して、記者たちを驚かせた、と原田は云っていた。
 吉津祥子、野地辰男二人の死を鑑定した時の新聞記事を杉戸は切り抜いて持って来ていた。
「警察から検案を嘱託された開業医は、二つの遺体の検案を行い、男性の遺体は前日、午後10時~11時頃に腹部を刺されて死亡したと鑑定し、女性もほぼ同時刻に、同じく腹部を刺されて死亡したと鑑定した。何れも大量出血によるものと発表した」
 吉津祥子の死亡推定時刻は、ほぼその辺りだろうと杉戸もそう推測するが、しかし野地辰男の死亡推定時間には杉戸の計算と数時間程度の差がある。
 二つの死体は、警官度部が、被疑者佐川を~署に連行して来た時点で、警察は警察車で岡田診療所に運び込み、翌朝に、岡田医師が出勤してきてから死体検案を行った、と先に原田から聞いていた。僅か一夜程度の時間経過で死亡推定時刻にこんなに差が出るのだろうか。しかし、時間経過を逆算し、二人同時の殺害が不可能な状況から、当夜の10~11時の二人が同じ死亡時刻は有り得ない。
 あからさまに不機嫌を、迷惑顔に乗せて見せる岡田医師に、その推定時間の根拠について訊ねた、岡田医師は答えた、
「まあ、東京の医者のように、何とか云うややこしい機械を使わなくても、オレにゃ、死体の状態見れば、一目で見当つくさ。死後硬直度、死斑の出方を見れば、2、3日前までぐらいの仏さんなら、午前か午後か、夜中か真っ昼間に死んだのか程度の見当はつけられるね、ほぼ間違いなくね」
杉戸はその、根拠を再度訊ねた、
「経験、だね、まず第一に、ね。東京の医者じゃ、病院のベッドで安らかに死んだ死人しか見ねえだろうが、ここじゃ磯に流れ着く死体もあれば、誰にも看取られずに死んで何日も経って見つかる年寄りの腐乱死体も偶に出る、その経験、だね、一目見りゃ、どんピシャ、だよ」
杉戸は、全裸で発見された吉津祥子への強姦の可能性について訊ねた、
「外陰部の縁に、擦過傷が見られ、膣内に、精液、A型、だね。オレが直接調べた訳じゃないが、犯人が自衛隊員なんで、血液型はオレがわざわざ調べる必要はなかった、登録標見れば、女の中に残っていたのと同じA型。もう間違い、ないね、その自衛隊員が殺ったことに」
同じ血液型だったから犯人だってことになれば、何処かで強姦殺人事件が発生する度、同じ血液型の男達はおちおち寝ていられない。
 杉戸は、他に、遺体に損傷が無かった、か、訊ねた、
「首の周りに、ちょっと、二人に擦れたような痕があった、かな、別にどうってことない傷、だよ。いや、特に念入りには調べてないさ、だって、二人とも、腹、刺されて死んでるのに、何でそんな無駄なことしなけりゃいけないの?警察だって、そんなこと、一言も訊きゃしなかったさ」
生前か死後かで、刃物で刺された時に噴き出す血の量が違うのではないか、と杉戸は訊ねた。その時、看護婦が、扉を開けて、無言で岡田医師の顔を見詰める、岡田医師は愈々、苛立ちを見せ始めた、
「もう、患者さん、これ以上、待たせられないんだけど、な。あ、そうだ、現場写した写真、一枚、貰ってるよ、それ、見ればいいよ、畳の上に、血が結構飛び散ってるから、オレが一々答えるより、それ見た方が判りやすいんじゃねえか。返してくれなくていいよ、もう俺には用が無えから」
 
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