第66話

文字数 1,650文字

            66,
 上野駅構内、びっこを引きながら歩く男は、度部の部屋から剥がして持って来たポスターの端切れを手に、赤色公衆電話の順番を待っていた。しかし多くの人が列を成して待っている。ポスターの端切れに成瀬の事務所の電話番号が書いてある。成瀬に繋がれば、あの男は多少でも朝鮮語を話す、例え一言でもいい、あの成瀬の耳元に、
「죽여줘」
と吠えてやりたかった。
 だが、順番が回って来ない、諦めて男は、列から離れた。その時、たった今、赤電話で話を終えて受話器を下ろした、どこか田舎者臭い背広姿の男、その背中に、旧日本兵の誰もがその背中に背負っていた同じ背嚢を背中に掛けていた。
男は、まるで、日本兵の亡霊でも見るようにその背嚢を背負った男を見た、そして男は、横を過ぎる、ちらりと見えた俯き加減の、リュックを背負った男の横顔を見て、遠い記憶が刺激されて今一度、振り向いて、見た、
 奴だ、度部だ、間違いない…奴の顔、忘れるものか。


 客車内は、買い出し客で混雑していた。脅し取って椅子席に座ったものの、この喧騒の中、どうせ眠られそうにない、度部は、背嚢を背凭れにして目を閉じた。
 以前から度部は朝鮮への逃避行を考えるようになっていた。朝鮮戦争勃発、戦後李承晩が初代大統領に就任して以来、南朝鮮政府は、日本からの同胞帰国者を水際作戦と称して追い返す政策を採った。荒廃した国土に一時は百万、二百万の朝鮮人が帰国した、忽ちに国民は飢えた、政府はとても受け入れられなかった。海岸線を遮断し、なお密航を試みる者は、海上で海岸で待ち構え、見付け次第射殺した。
 そうなれば、密航業者は、命の危険を理由に報酬を何倍にも釣り上げた。それでも密航希望者の数は減らないと云う。
 大阪には密航を斡旋する業者が何人も居た。その内の一人と連絡はつけてあった。業者が提示してきた金額は、背中の背嚢に、吉津祥子の男から奪った金の範囲内で払える額だった。
 半金をその場で渡した、後の半金は舟に乗った時に払う。密航業者はその手筈を説明した。長野で、成瀬から金を受け取り、長野から一旦京都に入り、山陰線に乗り換え島根の、指定された駅で下りる、そこで、業者から教えられた名前の男が来るのを待つが、時間的には十分余裕があった。
 朝鮮に行っても、何か宛がある訳ではなかった。憲兵時代に過ごした慶州辺りへ行こうと漠然と考えていただけだった。何よりも、このまま日本に居れば、明日にでも逮捕されるのは目に見えている。捕まれば、首を吊るされるのは確実、だった。
 それに、成瀬から受け取る三佰萬の札束は、焦土と化した朝鮮の地では、日本で使うより何十倍、何百倍もの価値がある、この金を資金に何か事業を起こしてもよい、使い切るまでお大尽暮らしを続けることも出来る。
 行けば何よりも命が保証される。度部の頬が自然と緩む…

 ふと、眠ったか、度部は窓の外を見た、列車は闇の中を疾走している。その窓ガラスに、通路に大勢の買い出し客が、互いに睨み合い、犇めき合っている姿が映っている、その中に、この季節にはまだ早い、長めのコートを着て、鳥打帽子を深めに被った男が、窓ガラスに映った度部の顔を睨んでいることに気が付いた。
 成瀬、だった。
目が合うと成瀬は顎をしゃくって、付いてこいと合図した。度部が席を立った、途端に、通路の客が数人、その空いた席を奪い合って、喧嘩を始めた。
 車両の最後尾、連結部のすぐ前まで行って、成瀬は立ち止まった。ここには僅かしか客はいなかった。理由はすぐに判った。客の顔も、服も、機関車から噴き出る煤煙をまともに受けて、何処もかしこも煤だらけになっていた。
 出入用の扉、そこに隙間がある。そこに二人は体を寄せた。
「持って来たか?」
度部は何故この電車に、明日に来る筈の成瀬が乗っているのか、ふと不思議に思ったが、そのことを尋く前に、金のことを訊いた。
 成瀬は頷き、コートの内ポケットに手を差し込んだ、度部は一瞬、怪訝した、三佰萬の札束、そんなところに…?
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み