第47話

文字数 1,598文字


            47,
 杉戸は、国選弁護人上橋一徹の事務所を訪ねた。今回事件担当を辞任してもらう為だった。暗い室内で、上橋は、まるで近在の村役場で働く老役人のように、右の腕に腕袋を嵌め、傷だらけの机にかじりつくように座って何かの書類を読んでいた。
 多分奥さんだろうが、毛むくじゃらの白髪頭の老事務員から渡された杉戸の名刺を暫く眺めていたが、こちらへ、と板張りの床に上がらせ、奥の、小さなカーテン窓のついた戸板で仕切った応接に案内した。
 こうして正面、ま近くに当人と初めて対面してみると、むっつりと、杉戸は上方落語を愛好するが、中でも春団治が好きで、その中に代書屋と云う古典がある、そこに出て来る代書屋は多分こんな様子のひとなんだろうなと連想させてくれる、不愛想を絵に画いたような老人だった。
「ご用件は?」
杉戸の名刺を、長年の手垢で、べっ甲飴のように黄色く光沢する眼鏡を通して見ながら、訝し気に問う。
「早速ですが、今日先生をお訪ねしましたのは、~島殺人事件の担当を辞退して頂きたいと思いまして」
老弁護士は、少しばかり驚いたのか、老眼鏡を掛け直すと、杉戸の名刺をもう一度見直した。 杉戸は続けた、
「私は、つい先日まで、~島で当事件の取材をしておりましたが、本件は被告の自白事件でありながら、色々と取材を進める内に被告が自供して罪を認めるには、また被告を犯人とするにはどうしても矛盾する点が何点も出て来ました」
老弁護士は、無表情に杉戸の顔を見詰める、その無表情を見て。杉戸は耄碌症状を疑う。
「それで、初公判で被告がどのように事件状況を供述するのか注目して傍聴していたのですが、あっさりと、所定の公判手続きだけで閉廷となってしまって、これではこのまま、被告の有罪が決定されてしまうと思い、それですぐ、被告のご両親に会って、私の知っている限りの事情を伝えました、ご子息は犯人ではない、と」
やはり老弁護士は、しかし、何だか、こんな話、聞き慣れたふうに、無表情に杉戸の顔を見詰める、
「それで、ご両親にも納得して頂いて、今後は被告の無罪を訴えて公判に臨むことになりました。それで先生には突然のことで恐縮ですが、今回事件担当弁護士を辞任して頂き、我々で新たに別の弁護士を選任して、被告の無罪を立証して参りたいと考えております。こういう事情、ご理解頂きたいと思います。ひと一人の、一生に係わることなので、被告の無罪を勝ち取るべく、全力を尽くしてまいります。
 勿論、先生には、所定の弁護士費用、またその他今日までの必要経費につきましては、ご請求頂き次第お支払い致します」
老弁護士は、腕を組んで沈黙した。老事務員がお茶を運んできて、二人の間の机の上に置き、話の成り行きを聞き知ってか、心配そうな顔で仕切り間を出た。
老弁護士は沈黙したまま、だった。杉戸はもしや寝ているのではと疑った程に、その息は穏やかで安らか、だった。
 老弁護士は、老眼鏡を外して机の上に置き、湯飲みに口を付けて一飲みすると、           
「杉戸、さん、悪いですが、この話、担当辞任はお断りします」
杉戸は、まさかの返事に驚いた。一旦選任された国選弁護人を忌避したり交替させるのは余程の事情が無い限り容易ではないことは杉戸も承知している。余程の事情、選任弁護士自ら事態を何かの理由を付けて裁判所に申し出れば簡易に認められる、しかしその選任弁護士に辞退拒否されてしまえばどうにもならない、それこそ新たな訴訟を引き起こしてしまいかねない。
「先生、こんなこと、申し上げて恐縮ですが、ひと一人の一生の問題、下手すれば情状酌量認めて貰えず、極悪犯として死刑の判決も有り得る事件です、なのに、先生は、事件現地に一度も立ち会われることもされていない、関係者に一度も会っていらっしゃらない、そんな無責任な方に、この事件を引き受けて貰う訳にはいかないのです」

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