第79話

文字数 1,515文字

               79,
 強がりを吠えて成瀬の気持ちも少しは落ち着いた。だが今一度手紙を読み返して、如何なる責め苦に見舞われようとも、屹度白を切り通してみせる自信に満ちていた成瀬だったが、一気に地獄の底に突き落とされるような、成瀬にとって、正しく全てが終焉し兼ねない、致命的なことが書かれていることに成瀬は気付いた。
 それは、あの日…
成瀬は後援会長と会って駅に戻ると、タクシーで実家へと向かった。成瀬の実家は誰も住んでいない、成瀬は大きな邸の、その邸の地下、成瀬の生まれる前からそこにある、蔵の様子を見に行った。
 敗戦間際になって度部と二人、朝鮮から逃げ出し、漂着した漁港で、盗んで来たトラックに朝鮮から持って逃げて来た財宝を積み替え、それらをその地下蔵に運び入れて隠していた。都議会議員選挙に立候補する為に、関係有力者たちに配る金が必要だった、尋常の額ではなかった、成瀬は地下蔵から運送屋を使って一部運び出し、骨董屋に持ち込んで金に換えた。
 当選後、蔵のことが気にはなっていたが、成瀬は余りに忙しかった、この次いでにと様子を見に行ったのだった。
 長い間手入れされていない邸は雑草に覆われていた。地下蔵への入り口に立ち、成瀬はそこに頑丈な錠前がぶら下がっているのを見て、蔵が無事だったことに安心したが、その時になって初めて気が付いた、成瀬は鍵を持っていなかった。
動揺した、何処かに落としたのか、もしや誰かに拾われて、蔵が破られたのではないか、と心配になった。
 成瀬は漸く思い出した、度部を汽車から突き落とす際に、度部に渡した鍵を必ず取り返すべきと、胆に銘じて犯行を決行したが、完全にその大事な手順を飛ばしてしまい、崩れ落ちる度部の体を支え、リュックを背負ったままの度部を出入扉から突き落としたのだ。
 成瀬は、己れの、この期に及んで冒した己の迂闊さに我慢ならず、錠前を握って何度かガチャガチャと揺すった、そんなことでこの頑丈な錠前が開くはずが無い。
 その成瀬が慌て、動揺する様子を、朴明哲は、何処かに隠れて見ていた、と云うのだ。
朴明哲は、母の仇、度部を殺しに来た、と手紙に書く、もう一つ、この男は重要な使命を帯びて日本に渡って来ていた、それは度部と二人で盗み放題に盗んで隠した、古代朝鮮の絵や仏像、金銀の細工物を取り戻すことだと云う。
 朴明哲は、成瀬が地下蔵の錠前の前で途方に暮れる姿を朴明哲は見ていたと云う。そして朴明哲は手紙ではっきりと云っている、
「それが何処に在るか見当はついた」
そして、朴明哲は更に云う、
「佰萬圓払え、度部のことは誰にも云わない、オレは、その金でどこかで商売でもする」
慶州に帰って商売する、とは云っていない、どこか、とは日本国内に違いない、帰ろうにも李承晩は同胞の帰国者でさえ海岸で待ち受けて射殺していると聞く。

 朴明哲が云うように、次期参議院議員選挙に打って出る成瀬にとって、犬と並んで電柱に小便をかけているところを誰かに見られただけで、潔癖であるべき候補者にとって命取りとなる。そこへ殺人容疑、古代朝鮮財宝の窃盗疑惑が持ち上がれば、その場で成瀬は即死、する。 
「金さえ払えばオレは誰にも、何も云わない」
は、今後何度も繰り返し、一生涯脅し盗る、と同義語であることは元警視庁捜査一課長でなくてもこの世の常識、今、この男の息の根を絶たぬ限り、俺の、いや地元信州の名士であり、遥か昔、戦国武将に先祖を持ち、豪富農として長い歴史を持つ我が一族を代表して、先ずは国会議員となり、末には大臣となって地元に凱旋する俺の野望、一族の究極の夢が忽ちに潰えて消えてしまうのだ。

 成瀬は、或る男と会うことを決意した…


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