第55話

文字数 2,030文字

          55,
 傍聴席がざわついていた。記者たちは、上橋弁護士について、杉戸同様、その弁護士としての過去の活動、その姿勢について知り尽くし、その仇名で陰口を叩いてきた。
その仇名通り、「コクセンヤカッセン」もしくは「死刑執行人」と陰口されるように、上橋の仕事は、被告に「引導」を渡すことであり、過去に一度たりとも、被告の無実無罪を訴えて検察官とやり合う場面など見たことがなかった。
 第一に、杉戸の知る限りでも、上橋が扱う事件裁判で、全て第一回公判その日に裁判官が判決を下すことはあっても、同一事件で第二回公判、第三回と、その公判が続いたことなど杉戸の記憶になかったし、傍聴席の記者連中にも初めてのことだった。
 その「コクセンヤカッセン」上橋が、何んと、検察官相手に丁々発止と問答を挑み、なおかつ検察官に対し、新しい時代にそんな旧態依然のやり方では通用しないとまで説教するのだ。
杉戸にも、契約はしたもののその力量をやはり宛にはしていなかった。勿論、連日連夜、頭付き合わせて、情報を分析し、その結果を次の裁判にどう表現していくかその作戦を練ってはきたが、その杉戸でさえも上橋弁護士の豹変、奮闘ぶりに驚いていた。
 問題部分を杉戸は伝えてきたが、それを法廷でどう表現するかは演者である上橋弁護士であり、その上橋弁護士が公判開始早々から、その場その場で臨機応変、新しい脚本を自ら作り出し、狼狽える検察官を、別の台詞を被せて更に追い詰めていくのだ。
 見附弁護士に会って、上橋に代わってこの事件の弁護を引き受けてくれるよう頼んだ時、見附は、
「んん、おもしろい、ね」
と薄ら笑いを浮かべて云った。杉戸は、上橋では戦えないと訴えたが、その時、見附は軽く、云った、
「あの先生、舐めちゃいけないよ」
その時は意味不明だったが、今になって、見附が何を云おうとしたのか判って来た。

 その上橋弁護人が、裁判長に向き直って云った、
「被告の自白、供述内容について色々と疑問とする箇所が多々有りますが、その第一として、
被告が、二人を殺害した動機として、
『吉津祥子に騙されていた』
と知って逆上した、と供述しておりますが」
と云って、証人席の佐川に訊いた、
「被告に訊ねます、被告は吉津祥子に頼まれて、吉津祥子が大阪で造った借金の肩代わりにと、両親に頼み、三十萬圓の金を吉津祥子に渡した、これは事実、ですね」
佐川は子供のように首を大きく頷いて答えた、
「はい、父の店の番頭に持って来て貰って、番頭から直接、おかみさんに渡して、番頭はその受け取りを貰ってきて僕に見せました」
「供述書では、被告は、騙されたと、知って逆上し二人を殺した、と述べていますが、何を騙されたかは言及しておりません、供述書で被告が云ったとされる、騙された、とは、具体的には何を指すのですか?この金を渡したことを指すのですか?」
「僕は、一言も『騙された』とは云っておりません、勝手にあの警官が、そう書いたんです」
「被告に訊ねます、あなたは、「きつね」が閉店してすぐ、吉津祥子の家を訪ねていますが、その時、何か約束があったのですか」
「「きつね」にいる時に、おかみさんから目配せされていましたので、それで店が閉まってすぐ、おかみさんの家に行きました。おかみさんが僕を家に呼ぶときはいつもそうしていましたし、その夜も、おかみさんの目配せに気付いて仲間にも脇を小突かれていました」
「おかみさんに目配せされて、閉店後、おかみさんの家に向かった、ということですね。
裁判長」
上橋弁護士は裁判長に云った、
「被害者吉津祥子は、自ら被告を家に招いていることがお解り頂けたと思うのでありますが、しかし吉津祥子の家には、既に、その日到着した船便で、野地辰男が来ていたのでありますが、吉津祥子が何故、そこに被告を招いたのか、第一、吉津祥子とこの野地辰男の関係については、警察ではまだ明らかにされていないようですが、何れにしろ、私には、この野地辰男がいる自分の家に被告を招いたのか未だに謎でありますが…」
上橋は、そこで言葉を切り、佐川に向かって、
「被告は、吉津祥子の家に、この野地辰男がいたことを知っていましたか?」
「おかみさんが、時々、「キツネ」で飲んでいる男のことを、あいつ、借金取りなんよ、と云っていたのを聞いていますが、もしその、いつもショーピー吸ってる男が野地辰男だと云うのなら、見たことはありますが、僕がおかみさんの家に着いて、畳の上でおかみさんともう一人、男のひとの死体があったのは見ましたが、その男の死体が誰だったか判りません。
 それに、あの夜、もし、家に、誰か、そんな男が居ると知っていれば行く訳がありませんし、おかみさんからも、何も聞いていませんでした」
「被告に確認します、被告は畳の上に上がりましたか?」
「僕はすぐ外に飛び出したので、畳の上に上がったりしていません」
「その時、どの靴、履いていましたか?」
「今履いています、この靴、です」

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