第57話

文字数 1,470文字

             57,
 第三回公判終了後、裁判長の仲介で、付審判請求を主張する弁護人と、当然の職務を全うしただけの警官を証言台に立たすことに激しく反発する検察官とが話し合った結果、当事件、その発覚から犯人逮捕、そして調書作成まで携わり、被告佐川以外、唯一生存する事件当事者として公判廷に参考人として呼び、事件概要について互いに質疑応答することで両者は合意した。但し、当警官の法廷での証言、回答に対して、偽証罪などの法的責任を課さないことを条件とした。

 上橋はその夜、杉戸に次のように説明した、
「松川事件裁判でも、警察官の拷問によって被告が自白を強要されたり、捏造された証拠、証言を糾弾せんと付審判請求を訴えても、結局は、そんな事実はなかったとして処理されて不問に付されただけ、結果、却って検察側の捏造証拠、被告の自白を認めざるを得ない形に追い込まれてしまっている。
 今回、我々は、先ずこの警官を法廷に引っ張り出すことを最優先とすべきであって、この公判の異常な成り行きを世間に知らしめてその注目を集めるべきだと私は考える。
 当警官に、本人が作成した調書の矛盾を突きつけ、そこに記述した状況の、事実ではない部分を追及すれば、いかに調書が出鱈目であるか世間の目に晒すことが出来る。発言に法的拘束力はないが、私はそれでいいと考えている。
 裁判所も、まさか世間の耳目、即ちあなた方報道関係者が、素直に事の成り行きを、事実そのままに公表して、世間の興味を惹きつけてくれさえすれば、被告の無実無罪を勝ち取る重要な一歩となる。
 民主主義、証拠主義、新刑事訴訟法精神を叫んでも、裁判は検察が圧倒的に支配し、裁判官は検察に忖度する、相も変わらず旧態依然、何も変わっていないし未来永劫変わらない。
 裁判官の誰一人、新刑事訴訟法がいったい何であるか、何を云おうとしているのか分かっちゃいないし知ろうともしない、人権蹂躙なんか伝家の宝刀、職権濫用の錆ぐらいにしか思っちゃいない。ただ前例判例、それだけなんだよ。前例が無ければ何も出来ない。
 だから我々に出来ることは世間に訴えて世間を味方に付けるしかないのが現状、あんなに戦争で酷い目に合わされて、敗戦でそのことに気付いた筈の世間も、もうそんなこと忘れて、真実とか正義とかそんなことより、今食う米のことしか考えていない。そうして忘れてくれた方があなた方報道関係者にとっても、有難い、あれだけ、煽ったんだからね、だから新聞も世間も宛にはならない、だけど、少しは役に立つ、その少しの時間だけ、世間の耳目が集まった時を狙って、世間に、現行裁判の実情を知って貰えれば、我々は今度の裁判で被告の無実を勝ち取ることが出来る」

 その英雄的行為を称えられるべき、~島署度部巡査長度部の姿は、第四回公判廷、証人席に無かった。
 度部の乗った船が、悪天候で到着が遅れていると検察官から報告があった。その小一時間後、船は東京晴海ふ頭に着岸したので、今暫くお待ち願いたいと、自らもその顔に苛立ちを浮かべた検察官が告げた。
 同じ船で東京に来た、杉戸が依頼した二人の証言者は、待機室に到着していた。
だが、英雄は現れなかった。問い詰めると、検察官は、度部巡査長は着岸後、船から降りて、待機する警視庁パトカーに向かっている途中、腹の具合が悪いからと、ふ頭待合所に一人戻って行った切り、その姿は忽然と消えた。現在警察官ら数人が、その所在を確めているところであり、今しばらく待ってくれ、と頭を下げた。
 だが、正午前になっても度部は出廷しなかった。
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