第71話

文字数 1,689文字

              71,
 あの時、度部が席を立って通路を人込みの中を歩く時、その度部の前を行く、やや背の高い、買い出し客の中で不似合いな白いコートを来た男の姿があったことに、今になって男は気付いた。
 終着の長野駅、度部の姿を探しながら、男は駅を出た。駅前で、カメラのフラッシュの閃光が何発も光った。その光の中に、白いコートの男が立っていた。男にはそのコート姿の背中しか見えなかったし、それよりも男の眼は、駅を出て行く大勢の客の中に、背嚢を背負った度部の姿を必死に探していた。
 男は、今になって思い出した、白いコートの男は、数人の幟を持った男達に囲まれて、駅前に駐めた車に乗って走り去った。その、男達が振っていた幟の、文字、
「都議会議員 成瀬先生」
「次期参議院議員選挙立候補成瀬先生後援会」
の文字を今はっきりと思い出したのだ。ハングルに慣れた男の眼には漢字文字の縦列を、無意識に、習慣的に見過ごしてしまっていた、のだ。
 あの、白いコート姿は、あの、成瀬、だった、のだ。男は、ふと奇妙な考えに取り付かれた。成瀬と度部は同じ列車、同じ車両に乗っていた…だが、男は上野駅からずっと度部の姿を追って歩いていたが、その近辺に白いコート姿は無かった。
 だが、白いコート姿の男は、あの混雑する通路に突然に現れ、人込みを搔き分けて車両の後部へと向かった、そして、いま思えば、白いコートの男に度部は促されて席を立ち、白いコートのあとを追ったように思える。
 列車は幾つかのトンネルを過ぎて長野駅に着いた、だが男は度部の姿を見つけることは出来なかった。
と云うことは、度部は白いコートの男、成瀬に、何処かのトンネル疾走中に、突き落とされた…
 そうとしか考えられない。成瀬が度部を突き落としたのだ。男は、意外な展開に、頭の中が真っ白になり、直ぐには何も考えられなかった…

 だが、時間が経つにつれ、男は、自分が今置かれた状況がいかに絶望的であるか知らされた。
 もう金が、何を食うにも金が無かった、闇市のごみ捨て場で、咥えて走る猫を捉まえてその口から腐った肉を奪うしか喰う物もなかった。誰かを後ろから襲って、金を奪うしか方法は無かった。だが空腹で、あばら骨が剥き出た犬より痩せたこの体で、ひとを襲えば逆に、捕まった野良犬、盗人猫のように忽ちに叩き殺される。
 男は、ありったけの金を出して、日本への密航舟に乗り、丸三日三晩、荒波に身を揺られ、遂に大破した舟から、海に落ち、板切れに掴まり、海岸の磯の岩場に着いた。灯りの点いていた一軒の民家に押し入り、老夫婦を脅し、飯と金を奪い、逃げた。
 夜中、貨物列車に飛び乗り、東京に着き、闇市で老夫婦から奪った金で服を買い、偶然見た新聞記事で、憲兵度部の居所を知り、~島に渡ったが、度部は警察に島から連れ出された後だった、その途中で、度部は姿を晦ませてた。
 東京に戻り、度部の部屋から持って来た掛け軸で幾らかでも金に成ればと闇市で知り合った在日の男に、掛け軸を骨董屋で金に換えてくれるよう頼んだ。その男は、そのまま、金も、掛け軸も持って逃げた。
 残った僅かな金で、生きるためには唯一の望み、元憲兵隊隊長成瀬から金を脅し取ろうと、上野駅構内で電話の順番を待っていた、そこで、男は、あの、度部を見つけた。だが、その度部は汽車から突き落とされ、鉄輪に巻き込まれて挽き肉になって死んだ。
 俺は何しに来た、命を懸けて日本に、何しに来た?俺は、「엄마」の、無残な死の仇をとるため、奴を、あの男を殺す為、あの男に血反吐を吐かせ、許してくれ、と俺の,
拳銃で撃たれて膿で腐ったこの足にしがみつかせ、命乞いするその背中に、包丁を突き刺す為に、ここへ来た、だが、その仇は、死んだ…
 男は絶望の中、生きる気力を喪っていく、
「엄마」
と呼ぶ、涙に暮れて、
「엄마」
と今一度、呼んだ、ふと、その「엄마」の、懐かしい声が何処からか聞こえた、
「まだ、死んではだめだ、お前にはもう一人、殺さなければならない男がいる、そいつを殺せ、そいつを殺してから死ねばいい、死ぬのはいつだって、出来る、じゃねえか…」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み