第45話

文字数 1,683文字

第四部

         45,
 2昼夜の船旅、来るときの激しい船酔いを思うと鬱になる。気分を変えるべく、杉戸は甲板に出た。
 銅鑼が鳴り、船体が大きく傾き、岸壁から船体が離れる、眼前の景色が眩暈でもしたかのように大きく回る、この時点で既に船酔いが始まったと杉戸は自覚する。
 岸壁で見送りのひとたちが手を振っている、切れた紙テープが風に煽られて舞い上がる。タクシーが港湾事務所の前で駐車している。車に凭れていた運転手が、甲板に立つ杉戸に気付き、気まずそうに手を振った、杉戸も苦笑いして手を振った。その事務所の角に隠れる、黒い制服の人影があった。
 警官度部、だった。杉戸が度部の様子を見ていると、度部は、杉戸と目が合った途端、不意に腕時計を見、何か急用を思い出したふうに、急ぎ自転車に乗り港から出て行った。
 杉戸が今日の便に乗ったかどうか確認しに来ていたのは見え見えだった。杉戸は改めて思った、全てが見え見えの、度部の言動、だった。することの、云うことの全てが、思い付き、であり、何が目的でそうしたのか全てが丸見えだった。まるで小児の発想であり、行動であった。

 

 数日後、地裁第一回公判の日、杉戸は~小法廷傍聴席に居た。傍聴席には数人の顔見知りの記者と、佐川の両親、それと親類、友人らしき数人の姿が有るだけだった、元同級生の姿はなかった。
 傍聴席正面に裁判長、右手に担当検事、左に国選専門の上橋一徹弁護士が、老いて曲った背を無理に伸ばして、被告佐川の入廷を待っている。その姿は、おやつの時間、菓子が配られるのを待っている幼稚園児のようなお利口な姿勢である。
 身柄が移送され、送検されて以後、その取り調べ、聴取過程で、被告佐川の供述がどうだったのか、その認否について、国選弁護士上橋からたった一度切り、接見のあと、記者に訊かれて、
(被告は、~島署で申し述べた通りに間違いありません、一時の感情に任せて人の命を奪ってしまったことを深く反省しております、裁判が始まれば自分がやったことは全て話しますと云っている)
と答えた切り、だと社会部部長から聞いていた。
 被告の認否を公表する時の、古典的な決まり文句、だった。事実、この上橋の担当した事件裁判では、公判前も、判決後も、上橋が代弁する被告の言葉は、一字一句違わず、この通りであった。しかもその被告の言葉を、紙に書いたもので読み上げる。
 

 佐川が、刑務官に付き添われて入廷して来た。杉戸には初めて見る顔だった。白の、皺くちゃの長袖シャツ、襟は開け、袖口を少し巻き上げ、顔は病人のように蒼白で、疲れ切った表情で目を伏している。両手はだらりと前に下げて手の指を組んでいる、杉戸はその両手の指の関節辺りに注目した。
 時間が経っているせいか、元同級生船員から聞いていた関節の腫れはひいているようだが、その関節の部分だけに少し痣が残っているようで痛々しく見える。

 被告人佐川が名前を呼ばれ、証言台に立ち、冒頭の人定質問が始まった。続いて検察官が起訴状朗読を始めた、
「被告人は,昭和~年~月~日午後10時30分ころ,東京都~島~町~番地 借家人吉津祥子宅に於いて、~島同町内で飲食店を経営する吉津祥子と住所職業不詳野地辰男の両名を刺殺して金品を奪い…罪名及び罰条 強盗致死 (刑法) 第240条…」
続いて裁判官が、被告に黙秘権について説明し、被告側に、起訴罪状についての認否を求めた。
被告弁護人上橋が起立し、裁判官に向かって、
「当事件について、被告は、当初から、一時の激昂に自分を抑えきれなくなり、被害者二人の命を、身勝手な理由によりその命を奪ってしまったことを後悔し、その罪を認めておるところでありまして、罪状の認否を争うつもりはありません。ただ、今回審判におきましては、被告は、特に被害者吉津祥子への想いが嵩じ、求められるままに、その窮地を救わんと三十萬圓もの大金を用意して提供したのでありますが、被告はこれを二人に騙し取られたと思い込み、結果凶行に及んだものであり、犯行に至るまでの被告の心情を申し述べて、情状酌量を願うものであります」
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