第10話

文字数 2,854文字

             10,
 しかし、幾ら待っても、入口の戸も、雨戸も開く気配がない。疲れて寝ているのか、それとも急に風邪でも引いて寝込んでいるのか、だが不意に家の中に入って、具合を尋くのも気が引ける。
 が、今日は、金貸しからの連絡の有無を訊き出すと云う正当な口実がある。度部は、庭に自転車をとめ、閉まった入口戸のところまで来た時、家の中からふと物音が聞こえて足を停めた。
ひとの声?金貸しが事前に連絡なしに突然やって来たのか、とも思ったが、昨日今日、東京から着く船便はない。
 度部は耳を雨戸に近づけた。
やはりひとの声だった。しかも聞こえてくるのは、話し声ではなく、官能に悶える女の呻き、だった。熱い吐息が盗み聞きする度部の耳にもまるで傍に居るように聞こえてくる。
 雨戸に隙間はない、それにひとの目もある。度部は家の裏に回った、閉め忘れたか、台所の勝手口の戸が少し開いている。度部は警官用の底の固い靴を脱ぎ忍び入った。

 女の、恍惚に耐えられぬ呻き声、度部は破れた障子穴から中を覗き見る。締め切った雨戸の小さな穴から漏れ入る外の光が、全裸で、蛇のように縺れ絡み合う男と女の姿を浮き彫りに照らし出す。
 吉津祥子の真っ白の、もちのようにふくよかな肌が、日焼けした肌の佐川の体に絡みつき、二人の体は上に下になり、その度、吉津祥子の長い髪が解け、二人の体を縛る様に巻き付く。
 陽が雲に隠れたか、室内は闇に包まれた。闇の中に突然金色に鋭く光る物、それは吉津祥子の二つの眼だった。その二つの眼が、障子の穴から覗く度部の眼を睨んでいる、度部は息を飲んだ、次の瞬間、吉津祥子の顔が、白狐の顔になり、真っ赤な口を開け、牙を剥き出して、佐川の首に噛みついた、そしてその眼は猶も、度部の眼を睨んで離れない。

 度部はあの日のことを想い出していた、あの日、度部は抗日農民兵を追い詰めた、その男の首、刎ねようとした時、農民兵の母親が前を塞ぎ、息子を助けてくれと哀願した、その母親を度部は犯した、その女が、霧のように消え、そして霧が晴れて一匹の狐、
(私は、倭国は和泉の郡、血惇山寺の床下に巣を営む狐、名を吉津禰、と申します、吉祥天女様に化身して度部様のことを騙しておりましたが、度部様のことがいつしか忘れられくなってしまいました、
 お許し下さりませ。ですが、度部様、我が身の正体、度部様に知られた以上は、私は、度部様をこの場で喰い殺すしか、私は元の國に帰ることが出来なくなりました)
白狐は、突然に牙を剥き出し、狼のような唸りをあげて度部に襲い掛かった、度部は狐の首を斬り落とした、身二つになった狐、その体、忽ち濃い霧に包まれ、狐の屍は消えた…

 がたっと何かの物音がした、陽の光が一条、部屋に差し込んだ、そして、絡んだ二つの体が、元の二つに分かれた。
 吉津祥子は手を伸ばし、枕元に置いた煙草をとり、マッチを擦って火をつけた。
「ねえ、サガちゃん、お金のこと、やけど…」
気怠い声で吉津祥子が云う、
「分かってるよ、ちゃんと約束は守るさ。俺たちの部隊、横須賀の基地に戻るのは今月の末、それまでに金、都合してくれるよう親父に頼んどいた、次の東京からの船便で、誰か店の者に持っていかせるって云ってたから、間違いない。
 何に使うんだって、親父、そんなこと聞きもしないさ、丁度、親父にとっても都合よかったんじゃない、俺に頼まれたからとお袋に云って、俺に渡す口実で自分の遊ぶ金も足すつもりだと思うよ」
「お金持ち、なんや、あんたのおうち、そんなん知ってたら、もっと早く、な?」
「じゃあ、さ、さっちゃん、さ、俺との約束、どうするんだ、ちゃんと守ってくれるんだろな。俺はもう決めたんだ、親父にも、自衛隊やめて東京に帰る、嫁さん、さっちゃん、連れて帰る、親父の仕事、おれも手伝うって約束したんだ」
「そんなん、うちが約束破る筈ないやん。さがちゃんが、東京戻る時、うちも一緒に行くつもりしてんのよ。店は、また元の持ち主に返してさ。でもさ、さがちゃん、うちみたいなばあさん、連れて帰ったらびっくりするんやない?おとうさんやおかあさん?」
「全然大丈夫、だよ、もうさっちゃんのこと、話した、ちょっとは親父、驚いてたけど、却ってさっちゃんのこと、興味、持ったみたいだよ、スケベ、だからね」
「ああ、よかった、だったらええんやけど」
「それよりさ、さっちゃん、さ、あの、いつも店の隅にへばりついて、酒、ちびりちびり飲んでる、あの、度部とか云う警官、あんたの陰の亭主なんだろ?あんたが浮気しないか毎晩店に来て、見張ってんじゃないの?皆な、そう云ってるよ」
「うわ、そんなこと云うてんの、皆な?ああ、もしかしてそう云われてるかも知れへん、とは思うてたけど、やっぱりな。皆なに云うといてよ、あんなケチな奴、亭主でも何でもないって。
ほんとは、うちかて迷惑してんやで、毎晩毎晩、店に来て、あんたも云うての通り、ちびりちびり酒飲んで、なんや、勝手に亭主面して、あんなん、営業妨害、やんか。
 うちな、正直云うと、あの男に、な、お金、工面してくれるよう云うたんやんか、いや、あんたのこと、もっと早く知ってたらそんなこと頼めへんかってん。せやけど、あの時、うち、かなり追い込まれてて、しようこと、なし、や。せやなかったら、頼む訳ない。
 ついでやから云うけど、あの男、出してもええよ、ていうてくれてん、30萬ぐらいやったら出す、って。ほんでうちが、ありがとうって礼云ったら、あの男、何を勘違いしたんか、うちの手を握って、うちのこと引っ張り込んで、うちが何すんねって突っぱねたら、諦めて、な。
 うちな、その時、気がついてんけど、あの男の体から、どない云うたらええんやろ、そやな、腐った魚の、いや違う、あれは蛇や、蛇、生きた蛇の皮みたいな、物凄う嫌な匂いして、溜まらんなって、うち、突き放して逃げたんや。後で気いついたんやけど、うちの店、変な匂い、してない?蛇の匂いか蛙の匂い、みたいな、どないしてもとれへん、あの匂い」
「いや、あの匂い、皆な気が付いてて、さ、何だか、いつも店、入ったらさ、変な匂い、きっと、いつもカウンターの隅に座っている男の、体の匂いじゃないかって」
早口でまくし立てる女の激しい口調が、度部の知る、吉津祥子のおっとりとしたもの云いとは余りに掛け離れ、まさか吉津祥子の声とは思えず、また思いたくもなかったが、話の内容は、最後の、度部が、吉津祥子の体を無理やり引き寄せたというところ以外は、全て、あの夜の二人が交わした会話そのままだった。
 昔、色街で女を買って遊んでいる時、一人の女中が、部屋に料理と酒を持って来た時、女中が云ったことを度部は不意に思い出した、女は鼻に皺を寄せ、部屋を見回して、
「ここ、蛇とか蛙みたいなの、居ない?何だか生臭い匂い」
女中は、布団に寝る女に一喝されて部屋を出た。その時のことを度部は思い出した。
 佐川と吉津祥子の話を聞きながら、度部の体は、怒りと恥辱で震えていた。
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