第76話

文字数 1,483文字

             76,
 成瀬は、机の上に数社の新聞を広げて読んでいた。事務所に到着すると、事務員が淹れてくれた湯飲みの茶を、憲兵隊時代からそうしてきたように、ずるずると、垂れる洟水を吸い込むように音立てて啜りながら新聞を読むのが習慣だった。
 このひと月ほどは、特に、後援会から送られてくる地元長野発行の新聞を念入りに目を通していた。
 成瀬が捜す記事は決まっていた。ひと月前に発生した、長野に向かう列車からの乗客の飛び降り、轢断事故関連の後報だった。発生から数日は、地元では稀有の大事件であり、記事は大きく扱われていたが、その身元が逃亡中の元警官であり、逃げられぬと悟って観念して飛び降りた、と結論されて以来、どの新聞も一行の記事も掲載しなくなっていた。
 地元だけではなく、一般世間の関心も消え、もう大丈夫だろうと、成瀬の心に重く圧し塞がっていた暗雲が漸く割れて、晴れ間が覗き見え始めた頃、だった。
成瀬は、日付の古い地元新聞で何かを包んでいる時に、駅前に立ち、らしくもない笑顔を作ってカメラに撮った自分の写真が載っている記事が目に入った。
「成瀬都議会議員、地元凱旋」
突然に思い立ったように見せかけて、地元の後援会長を訪ねたが、このぎこちない笑顔の裏に、成瀬は、恐ろしい仕事を成し遂げた直後の、その時の、隠しきれない心の動揺を見て、今再びその時の動揺が蘇り、手が震えて、持っていた湯飲みを危うく落としそうになった。
 そして、成瀬の眼が、その写真の或る一点、白いコートの胸の辺りに、黒い染みが写っているのを見つけ、心臓が停まりそうになった。
 駅に着き、記念写真を撮ったその後、このコートの黒い染み、実際には、それは赤く、そして滲んでいたが、誰が見ても、はっきり血だと判るが、後援会長がこれに気付き、心配して、
「先生、大丈夫、ですか?」
と訊いた、成瀬は自身でも初めて気付き慌てたが、咄嗟に嘘が出た、
「いやいや、いいんだよ、大したことないよ、さっき、列車から降りる時、他の客が持っていた、鎌のような刃物が引っ掛かって、胸の皮膚がちょっと切られて、血が、ね、いやいや、もう大丈夫大丈夫」
それで後援会長も納得した、自身も、東京に戻って以来、このコートに袖を通さなくなっていて、忘れてしまっていた。
 成瀬はふと思い出し、机の横の、上着掛けスタンドを見た、そこに、そのコートを掛けたままだった。東京に戻って翌朝、事務所に来て、コートを脱ぎ、そこに引っ掛けて以来、それまで何処へ行くのも、季節、場所無関係に、必ずこのコートを着るか腕にかけて出掛けていた、が以来その染みを、度部の怨恨が染み出してきているように思えて、忌み嫌って見向きもしなくなっていた。
 事務員に気付かれぬよう、成瀬はコートをスタンドから取り、足元の鞄に押し込んだ。帰る途中、そうだ、今日は電車で帰ろう、駅のゴミ箱にでも押し込んで棄てれば、今のこの時期、ゴミを漁る奴には、この上物のコートなんぞは当たり籤を拾ったようなものだ、あっと云う間もなく、持ち去られるに決まっている。

 事務員が、封書の束を机に置いた、どれもロクなモノの一つもない、成瀬は差出人名を一瞥しただけで、足元のゴミ箱に投げ入れた、その内の一通、差出人に、ハングル文字、成瀬はハングルもそこそこに読める、
「朴明哲」
住所も何もない、この名前だけ、投函は都内のポスト、三日前の日付。
 表の宛名は、釘で書いたような漢字文字で、成瀬の事務所の住所、そして成瀬の名前。憲兵隊時代に現地朝鮮人に知り合いは居たが、この名前に記憶は無い、気に成って封を開けた、 

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