第84話

文字数 1,770文字

           84,
 片脚が腐乱した死体が本牧の沖合で引き揚げられたと聞き、杉戸は横浜支社を訪ねた。遺体の写真数枚を焼増しして持ち帰り、骨董屋を訪ねてその写真を見せた。骨董屋は、この男に襲われ、金と掛け軸を奪われたと証言した。
骨董屋は云った、
「やっぱり、あの掛け軸には恐ろしい呪いが掛けられとるんじゃ、あの掛け軸、持った途端にひとは死ぬ。気を付けろよ、兄さんも」
その足で長野に行き、翌朝、夜明けを待って長野駅前で客待ちする、車体に緑の線の入ったタクシーを見つけ、運転手、早田に同じ写真を見せた。早田も、間違いない、あの日、成瀬議員の実家まで往復して乗せたのは、この男、だった、と証言した。
 その早田の車で、長野支社に向かった。野本記者にこれまでの経緯を説明した杉戸は、
しかし、今後の指針ついて、未だに何も決められないと、心境を正直に打ち明けた。
 要するに、決定的な証拠、が無かったのだ。
成瀬が東京駅構内で棄てた白いコート、鑑定を依頼していた大学から報告があり、血液型はA型で、元警官度部と同じであることは判ったが、果たしてこの日本に、いったい何人のA型のひとがいる、また報告書には、コートに付着した指紋の鑑定結果も報告されていたが、採取出来た指紋は全て同一人物、コートの持ち主を指している、とその結果を知らせている。
 横浜本牧沖で死体で発見された男の手紙には、成瀬の犯行を示す重要な目撃証言が書き込まれている、がしかし、当人が殺されてしまっては、その口から証言を得ることは出来なくなってしまった。
 度部と成瀬の関係を取り上げて、成瀬には度部を、そして朴明哲を殺害する動機があると訴えても、公判で、犯行の決定的証拠、目撃証言が無ければ、何の意味もない。
 策尽きて、朴明哲の手紙を読み直していた杉戸の耳に、朴明哲の、心の底から、杉戸に訴える声が聞こえてきた、
(例え、私の死が、蟻のひと噛みであろうとも、私が、死に換えて、日本のひと達に、私の、いや我ら虐げられた朝鮮民族の叫び、泣き声の一つでも聞いて頂ければ、悪徳の、ひとでなしの男を、その華やかな舞台から引き摺り下ろす奇跡への一歩となる、ひと噛みになるやも知れません)
 杉戸は野本に云った、
「先日、俺は君の、疑問の声を聞いても何も答えられなかった、何故なら、俺自身、その答えを見つけられずにいる。俺たちは知る、しかし知っても俺たちには何も出来ない、何もしない、俺たちはただ知るだけ、知って俺たちは口を閉じ、塞ぐ、そして俺たちもいつしかそのことを忘れてしまう。
 しかし、今、この手紙、読んで、やっぱり俺たちにはしなければならないことがある、それは知らせる、多くの人に、俺たちが知ったことを知って貰う、それが俺たちの仕事、じゃないのか。
 この手紙に書いてある通り、蟻のひと噛み、でいいんだ、何も大袈裟に構えなくてもいいんだ、俺たちは知ったことを、多くの人に知って貰う、それが俺たち新聞屋の仕事、なんだ、と今、漸く、俺はこの手紙読んで気が付いた。
 俺は、帰れば、雑誌編集部に移籍する、いや、辞めて小さな雑誌社、起ち上げたって構わない、そこで特集記事を組んで、今度のこと世間に公表する、そんなこと、この日本で誰もやったことがない、だが俺はやる、古代朝鮮の財宝が、駐留中の日本軍将校によって盗み出され、それが敗戦直前に日本に持ち込まれて、それを元手に国会議員の椅子を買おうとする、元憲兵隊将校が居る、と訴える、
 いいんだ、誰にも、見向きもされなくても、三日で会社、首にされたって、起ち上げた会社潰れたって、俺には、蟻のひと噛み、でいいんだ、例え一人でもその記事、読んだひとが、世の中に、こんな悪い奴がいるんだ、と知って貰えれば、それで十分だ。
 だが、それだけじゃ終わらない、俺の目標は、この記事で、成瀬を誘き出してやるんだ、奴が、俺が書いた記事が全て自分を指していると気付けば、奴は、次期参院選に打って出る成瀬は、必ず、朴明哲のように俺を殺しに来るか、俺を裁判に訴えて来る、俺は、奴から喧嘩を仕掛けてくるのを待てばいい、その時に、俺たちが知ったことの全てをその法廷で全部ぶちまけてやればいい…」
俯いて聞いていた野本が、俯いたまま、ぼそりと云う、
「杉戸さん、僕にもやらせて貰えませんか、その仕事…」

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