(11) 過去の傷
文字数 1,700文字
だが、あいつが変わってしまったのは小三の時だ。それまでの音楽の担任は優しい人で、音程を無視して歌っているあいつを叱ることもせず、元気がいいといつも褒めていた。でも年が変わって担任が変わると、最初の授業でそいつは言い放った。『あなた、音外し過ぎよ。ほかのみんなの迷惑になるから、気をつけなさい』ってな」
「そんな、ひどい……」
「まあな。で、そう言われた瞬間、あいつは初めて自分の歌を直視した。自分が歌えば、周りに迷惑がかかる。今までみたいに好き勝手歌うことはできない。そう考えていくうちに、幼いあいつは段々音楽の授業で歌うのが怖くなっていった。まっすぐ立って、他のやつらと一緒に歌うことに恐怖を感じ始めたんだそうだ。だから次第に声もか細くなって、ついには人前で歌わなくなってしまった。歌うことは、今やあいつにとっては単なる苦痛でしかないんだ」
やがて野薔薇ちゃんは、わたしの方に向き直ると真っ直ぐな眼差しで言った。
「会ったばかりで図々しいのを承知で、一つだけ頼みがある。美樹は過去の傷を抱えて、それで好きだったことを我慢しながら生きてる。確かにあいつにとっちゃ、昔のトラウマは相当キツいものなんだろう。それはあいつにしかわかんないことだ。
でも、あいつ、私に全部喋った後でこんなこと言ってたんだ。『うちも、いつかは勇気、出したいんだけどね』って。
だからさ、どうか美樹のこと、ちょっとでもいいからこれからも構ってやってくれよ。能天気でどうしようもないほど臆病だけど、あれでも私の数少ないダチだから」
野薔薇ちゃんは、すべて言い終えてから深々とわたしに頭を下げる。
そんな彼女に、大事な話を聞かせてくれたことへの感謝の気持ちをストレートに伝えた。
「うん、わかった! 美樹ちゃんのこと、教えてくれて本当にありがとう。野薔薇ちゃんってさ、すごく友達想いなんだね」
次第に野薔薇ちゃんの顔が赤くなっていく。
うっせぇ、とどもりながら足早に去っていく彼女に笑顔で手を振ると、わたしもその場を後にした。
その夜、再び部屋にナナ様を呼ぶ。
またしてもイヤな顔一つせず、すぐ目の前に現れてくれた。
「どうしたの、桜良?」
昼間、野薔薇ちゃんから聞いた話を手短に伝えてから、試しに尋ねてみる。
「ねえ。やっぱり美樹ちゃんは、何にもしないでそのままの方がいいのかな」
するとナナ様は、呆れたように私に微笑みながら問い掛けた。
「そのようにわざわざ聞いてくるってことは、そうしたくない気持ちの方が強いのよね?」
まんまと見透かされてしまい、率直に自分の気持ちを伝える。
「確かに、美樹ちゃんの過去の傷を今更掘り返すのは、わたしにとってもかなり怖いことだよ。もしうまくいかなかったら、最悪、お互い傷つけ合ってしまうかもしれない。
でも、初めて会った時、美樹ちゃんバスケしながら歌ってたの。その歌、わたし聞いててすごく好きだったんだ。きっと美樹ちゃん自身、本当は今もやっぱり歌うことが好きで、できることなら自分の歌を好きになりたいと思ってるはず。人前でみんなと歌うのって、最初は怖いかもしれないけど、それさえ克服できればまた好きな歌を歌えるようになる。美樹ちゃんは、心のどこかできっと強く望んでるんだ。あの時見たもやが、何よりの証拠だよ!」
そして、改めてナナ様に決意を述べた。
「わたし、歌いたい。美樹ちゃんと一緒に、歌ってみたいよ!」
「そう。思いが固まったみたいね。だったら、わたしが出来るアドバイスはただ一つだけ。こういうのは、あまり焦っちゃダメ。相手の気持ちも考えて、一緒にゆっくりと少しずつ克服していきましょう。そうすれば、きっと彼女の過去も清算出来て、一緒に前へと進めると思うわ」
「わかった。ありがとね、ナナ様!」
ナナ様がいなくなった後、暗い部屋で一人じっと考える。
心の中は、底知れぬ熱い思いで満ち溢れていた。