(13) 覚醒
文字数 2,023文字
そうこうしているうちに、彼女の姿はどんどん小さくなっていく。遠のく距離に反して、周りを取り囲むもやはさらに濃くなっていった。
どうしよう、誰か助けて。
彼方に向けて強く念じたその時、誰かの声が脳内に優しく語り掛けてきた。
──桜良ちゃんは、このままでいいのかしら?
それは少し前、夢の中で出会った不思議なお姉さんの声だった。
あまりに突然のことで少しびっくりしてしまったけど、すぐ気を取り直し心の中で訴える。
──お姉さん! でも、……わたし、やっぱり友達を否定することなんてできないよ。
すると、少しの間をおいて穏やかな声で返事がきた。
──いい、桜良ちゃん? 否定だけが、人を変える方法じゃないのよ。闇雲な否定はかえって逆効果になるの。
一番大事なのは、相手に寄り添って、相手のことを考えながら正しい方向へと導いてあげること。
大丈夫、貴女にはそれが出来る力があるんだから。
その瞬間、頭の中でずっと眠っていた意識が覚醒した。
至る所から自信が熱を帯び湧き上がってくる。
すっと立ち上がり、既にかなり遠くにいる早百合ちゃんの元まで近づいていく。
そして彼女の肩を掴み振り向かせると、その頬をペシッと叩いた。
突然のビンタに驚き、早百合ちゃんはとっさに睨みつける。
しかし、今までとわたしの様子が違うのを感じ取ったのか、すぐにやめて後ずさると、動揺を露わにし膝をびくびくと震わせた。
そんな彼女を、気づいたら強く抱きしめていた。
身体の震えがこれでもかというくらい伝わってくる。
ゴメンね、少しだけ怖がらせてしまったみたいだね。でも、もう大丈夫だから。
彼女を抱きしめたまま、耳元にそっと語り掛ける。
「早百合ちゃん、ゴメンね、今まで気づいてあげられなくて。いろんな思いをずっと一人で抱え込んでいたんだね。
……でも、わたし、早百合ちゃんがやったことはやっぱり自己満足だと思う。
自分をずっと苦しめて、そして他人も苦しめることしかできない。そんな自己満足は、辛いだけでしょ?
ねえ、一つだけ聞いてもいい?」
無言でゆっくりと頷いたのが、肩の感触でわかった。
「早百合ちゃんが合唱を心から好きでいる一番の理由って何? 歌が上手くなりたいから? それとも、周りに自慢したいから?」
今度は首を横に振ったみたいだ。それを感じ取って、安心した。
「そうだよね。だってこの間、早百合ちゃんちで言ってたじゃん。合唱団の演奏を初めて聴いて、凄く感動した、って。
きっとその時、自分もあの人たちみたいにみんなを歌で感動させたい、ってそう思ったんじゃない? 歌を通じて、自分の想いを聴いている人に届けたいって。
もしそうだとしたら、体育祭で早百合ちゃんがやったことは真逆のことなんだよ。誰も感動させられない。誰も幸せになんてできない。他人も、自分だって深く傷つけてしまう。わたし、早百合ちゃんにそんなこと繰り返してほしくない」
周りを覆っていたもやが次第に薄まっていく。耳元で鼻をすする音が聞こえてきた。
「覚えてるかな? いつか小学校の帰りに、道端で子犬を拾った時のこと。結局どっちの家も飼うことができなくて、どうしようか悩んでた時、『大丈夫だよ、私に任せて』って早百合ちゃん言ってくれたよね。そして次の日、朝の会で先生やみんなの前で、大きな声で『このワンちゃんをクラスで飼ってください』って言ってずっと頭を下げたんだよ。
あの時の早百合ちゃんのおかげで、その子犬は居場所ができた。今まではずっと大人しい子だと思っていたけど、その時に見た早百合ちゃんは、誰よりも輝いていて、とても優しかった。
だから、たとえ時が経って環境が変わってしまったとしても、わたしはこれからもずっと絶対に見捨てたりしない。人として良くない道に進んだ時は、きっと正しく導いてみせるから。
だからさ、正直に謝ろう? 今回のことで迷惑かけてしまった人たちに、ね」
全ての想いを伝えきると、ぎゅっと腕に力を籠める。
やがて、静かにすすり泣く声が聞こえてきた。
「……ごめん。ありがとう、桜良ちゃん。私ね、実はすごく怖かった。合唱部に入ってどんどん鬱憤がたまって、自分がだんだんとおかしくなっていくのが。
だからって、私こんな酷いことしちゃった。沢山の人に迷惑かけちゃった。私、昔みたいに戻れるのかなぁ」
「うん、きっと大丈夫だって。そう思い始めることが、変わる一歩なんだと思うよ。まずは、精一杯自分の気持ちを伝えよう。そしたら、いつかみんなもきっとわかってくれるって」
「……うん、そうだね。本当に、ありがとう。私、これから頑張るからぁ」
そうして早百合ちゃんは、堰を切ったように大声で泣き始めた。それを見てわたしも溢れる涙が抑えられなくなって、わぁーっと喚いた。
波音の合間に二人の泣き声が響き渡った。