第50話

文字数 2,820文字

 外界に出ると、すっかり雨はやんでいた。
 天を仰ぐ。早春の風が空をかけている。
 その春先の風に乗って、灰色の雲が東の空へと、どんどん、流されていく。
 流れゆく雲を見ていると、わたしはつい、こんなふうに思ってしまう。
 わずらわしいことやつらいことなんかもああやって、どんどん、どこかに流れてしまえばいいのになあ、と。そうすれば、笑顔で、心安らかな日々がすごせるのになあ、とも。
  でも現実は、なかなか、そうはいかない。いや、むしろ、フラストレーションだけが、どんどん、溜まっていくばかりだ。
 そういうことを考えながら、わたしは、流れる雲の行方を目で追っていた。
 
 すると、時々、雲の切れ間から、ぽつんと白い小さなお月様が覗く。
 それが、唐突に、ある記憶を蘇らせ、わたしは複雑な笑みを浮かべてしまう。
 それは、来し方の記憶。わたしがまだ、故郷にいるころの――。
 まだ幼少のみぎりのわたしは、夜空を見上げるたびに、ぽかーんと口を開けて、不思議そうに首をひねっていたものだ。
  どうして、お月様は、こうもわたしにしつこくつきまとうんだろう、そう思って。
 うつむき加減で、夜道を、とぼとぼ歩いていく。そして、ふと頭上を見上げる。するとそこに、ぽつんと白い小さなお月様。ふたたび、しばらく歩いて、また、ひょいと頭上を見上げる。
 え⁈ まだついてくるよ――既視感のように、またさっきと同じ、そのお月様――。
 年端もいかないわたしは、当然のように、気味が悪くなる。
 こうなったら、あれよ、とわたしは小さくうなずき、そのお月様から逃げようとして、突然、駆け出す。
 ふうー、ここまでくれば、もう大丈夫――深く息をつきながら、わたしは自分にそう囁きかけ、ふたたび、ひょいと頭上を仰ぐ。
  ええ⁈ そ、そんなあ……
 わたしは内心悲鳴をあげる。
 なんで、いつまでもくっついてくるのよ、とべそをかいて。
 でもお月様は、ふふ、いくら逃げても無駄よ、と言わんばかりに、ふてぶてしく、わたしを見下ろしているのだ。
 そのことが子ども心に、すごく、不思議でしかたなかった。
 ふと、それを思い出したわたしは、空に浮かぶお月様に向かって、複雑な笑みを浮かべていたのだった。
 
 公恵の実家をあとにしたわたしたち二人は、隅田川の土手の上に設えてあるベンチに腰を下ろしている。
 そこでわたしは、明るい都会の夜空を眺めながら、来し方の記憶に浸っていたのだ。
 穏やかな風が、爽やかに、土手の上を吹き抜けていく。それに、隣に腰をおろす公恵の長い髪が、ふわふわとなびく。そこから放たれる香気が、わたしの鼻孔を心地よくくすぐる。
 お花見には、まだ少し早い季節。なのに、わたしたち二人は、まるでオッサンよろしく、缶ビールを片手に、その風に吹かれている。
「ビールでも飲まないと、やってられないよねえ、まったく」
 この缶ビールは、公恵がそう愚痴をこぼして、ここにくる途中のコンビニで購ったもの。
 たぶんわたしの故郷では、非難めいた眼差しを向けられる行為なのだろう。でも都会では、そんな眼差しを向けられる大人は皆無と言っていい。
 ただ、お花見の季節ともなれば、この土手の上は、花見客でごった返す。なので今宵のように、こうやってのんびり、ベンチに腰を据えるなぞ、至難の業だ。
 でもいまは、ちがう。
 いまはまだ、そよ吹く風に、春のあの花の匂いは滲んでいない。
 
 ところで、いまいるこの空間はいつも、わたしに、奇妙な感覚を覚えさせる。
 ここは、都会の喧騒とすぐ隣合わせにあるけれど、どうも、そことはちがう時間が流れている、というふうに、わたしには思えてならない。
 都会の住人になって、わたしはふと、気づいたことがある。
「都会には自然が少ない」
  故郷にいるとき、テレビとか新聞とかで、判で押したように聞かされてきたことばだ。
 はたして、ほんとうに、そうなのだろうか――上京してしばらくすると、そうやって、首をかしげるわたしがいた。
 なるほど、都会には、小高い場所があっても、山と呼べるものがない。そのぶん、田舎に比べると、圧倒的に緑が少ないように思えるのだろう。
 でもなあ――ふと、わたしは思ってしまう。
 たしかに、この都会には「自然的」な緑は少ない。でもその一方で、「人工的」な緑の数では田舎を圧倒している、とわたしは思うのだ。 
 もちろん、われわれは、日々の暮らしに追われている。すると、どうしても、心のゆとりを喪失させてしまいがちだ。それもあって、なかなか、気づきづらいというのはあるのかもしれない。
 そこで、でもなあ、とわたしは思うのだ。
 時に、立ち止まり、都会の街並みに目を凝らしてみてはどうだろうか、と。
 見ると、街のそこそこに、人工的な自然が散りばめられていることに気づかされる。 それも、かなりの数の。
 ことに、この都会には、都会だからこそ、いくつもの非日常的な緑の空間が存在している。
 高層ビルに囲まれながら、だれにも気づかれずにひっそりと佇む、そんな非日常的な緑の空間が、あっちこっちに存在しているのだ。 
 わたしにとっての、浜離宮恩賜庭園が、まさにそれだった。 
 
 あれは数年前、まだ春浅い季節――。
 周に連れられて、わたしは初めて、そこを訪れていた。 瞳を閉じると、いまでもまぶたの裏に、あの日の鮮やかな残像がくっきりと焼きついている。 
 そこには、まるで絵に描いたような、そんなシュールな空間が横たわっていた。 
 抜けるような空の青さ。その下に広がる、高層ビルに囲まれた空間。そこを、黄色の絨毯さながらに辺り一面を埋め尽くす、数十万本もの菜の花。
 どこからくるのか、たくさんの蜜蜂たち。彼らが、花と花の間を、楽しそうに、優雅に飛び回っていた。 
 ただ単に緑に塗り潰された田舎の自然の風景と、そこは、その趣きを異にしていた。なんといっても、人口の造形物に囲まれながらも、静かに、ひっそりと佇んでいる分、ひときわ自然が秀でて見えていたのだった。

 そしてわたしは、この土手の上も、あの空間と、どこか似ていると思うのだ。
 目の前を、波頭を切るようにして、松本零士がデザインしたという戯画的な水上バスが、いまにも宇宙へと旅立ってしまいそうなフォルムで、川面を駆けている。 
 それと、向こう岸には、ユーモラスな造形物。それが、ライトアップされて、金色の輝きを優美に放っている。
 高層ビルを二つ挟んだ左隣には、スカイツリー。それが、淡い光を身に纏い、切っ先を天に突き刺すようにして、そびえ立っている。 
 眼前にはいま、そうした景色が広がっている。 
 それなのに、わたしたちが腰を下ろすベンチの上には、暮れ残った陽だまりのような、まったりとしたシュールな時間が流れている。 
 それが一瞬、都会の雑踏の喧騒を忘れさせ、日常との時間の落差を感じさせるのだ。まさにここには、そうした空間が広がっている。


つづく
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